

あっという間の10日間だった。朝早くから夜遅くまでホルン、ホルンの毎日。命の洗濯をしてきたといってもいいかも、、、でも行きも帰りもいろいろなトラブルがあって、すべてがうまく行ったわけではなかった。
出発の直前に財布は(お金、クレジットカード、運転免許証など)なくすし、その翌日には交通事故も起こして、本当に出発できるのかと思ったくらい。
6月13日金曜日
自分は夜の出発だが、子どもたちをサマーキャンプに行かせるため、朝から、大騒ぎ、大忙し。14日のホテルの確認がまだ取れていないし、出発前にやる事はいっぱいあるのに、ほとんどパニック状態のまま、空港に向かう。
手荷物は、アジア線エコノミークラスの場合、20KGまでしか預かられない。太平洋線は普通のトランクが2個まで預けられる。そこで、いかにこの差をカバーするかが問題。今日の私の荷物は、20kgのスーツケースと7kgのホルン、それに機内持ち込み用のボストンバック。行きは、空港のカウンターに知った顔のお姉さんがいたので、そこは拝み倒して預けた。
フライトは久しぶりのボーイング747ー200、俗にいう在来ジャンボ)80%ほどの座席占有率とか。お姉さんに通路側で隣が空いている席を探してもらい、機内でとりあえず、横になることができた。
6月14日土曜日
朝成田に着く。雨、そう日本は今梅雨なんだ。この前来た時は、桜の花が満開だったのに、、、長いこと季節を感じる生活から離れていると、つくづく感じた。
いつものホテルにチェックイン、ベットに横になると、急に疲れが出てくる。機内で横になったとはいえ、熟睡したのは2時間もあっただろうか、でも眠れない。とりあえず、1時間ほど横になって、ヤマハに買い出し。午後は秋葉原に買い出し。
夜は友人と久しぶりに渋谷で飲んだ。中学生の頃は、レッスンの行き帰りに、よく渋谷に来たが、もう何がどこにあるのか、忘れてしまった。それにものすごい人!そうだ、ここは日本、東京なんだって改めて思う。
6月15日日曜日
出発は12時だから、11時に成田につけばいいやと思い、東京駅10時3分発の成田エキスプレスに乗る。成田に着くと、ものすごい人,人!この辺からいやな予感。乗り遅れたら、この1年間、このキャンプのために、貯めてきたお金と時間と労力が、水の泡になってしまう。しかし国際線は40分前までに、チェックインをしないと乗せてもらえない。荷物検査の行列が一向にすすまない、時間はどんどん過ぎていく。
ご案内と書いてあるカウンターのお姉さんに、”すみません、12時のニューヨーク行きに乗りたいんですけど、、、”と叫ぶ。なんとかチェックインはできたが、今日は満席だといわれた。そこは得意のごり押しで通路側を確保する。
長い時間飛行機に乗るときは、通路側に限る。とにかくトイレに行くのが一苦労、気苦労。人間、寝る事、排泄、そして食べることをまず確保しなければ!
ニューヨークまでは、俗にいうダッシュ400、所要時間12時間強、いかに過ごすかが問題。特に今回は乗り継ぎ、そしてレンタカーを、3時間運転しなくてはいけない。とりあえず食事と思ったが、離陸後かなり揺れが続いて、食事のサービスが遅れた。朝食を取っていなかったので、もうはらぺこ、しかし、飛行機での食事ははっきり言ってまずい。特にこのエアラインのエコノミーの食事は、人を馬鹿にしたようにまずい。(と書いてくれと、この会社の人も言っていたくらい)また食べ過ぎると疲れる。もう一回の食事は食べない事にして、サラダとステーキを食べて、とりあえず寝る事にする。用意してきた入眠剤を飲む。
次の食事サービスまで寝る事ができたが、ニューヨークかボストンで食べる覚悟なので、食べずに我慢。目が覚めると、もうアメリカ。長い日の出のあと、下にはエリー湖かミシガン湖が見えてきた。隣にいたアメリカ人に聞いたが、彼もどっちかわからないと言っていた。アメリカって本当に広い。西端から東端まで飛ぶと5時間近くかかる。東京から香港よりも飛ぶのだ。飛行機は向かい風の影響を受けて、到着予定より、1時間近く遅れて、ニューヨーク・ジョン・F・ケネディ空港に着く。
6月にオープンしたばかりの新しいターミナル、まだ、ペンキのにおいがする。よせばいいのに、赤ちゃんを連れた人の荷物を持ってあげたり、ベビーカーをセットして差し上げたりしたので入国審査は一番最後の方になってしまった。
でもやっぱり、自分が昔、助けてもらった事があるので良く分かる。小さい子どもを連れて、旅行するのは本当に心身ともに疲れる。特に日本人の男ってマニュアルになかったり、学校でならわないと気を利かして何とかしようなんて思い付かない。(とオバタリアンは書いておこう)
荷物を取り、時計をみるともう午後の1時近い。確か、ボストン行きの飛行機は1時半出発ではなかったか。案内にいるお姉さんに聞くと、荷物を持って、シャトルバスでターミナル8に行けという。国内線だから、20分前までにチェックインすれば、乗れるけれど、、、ああ、やっぱり乗り継ぎはシカゴに限ると思った。シカゴなら、税関を出たところに、アメリカンとかユナイテッドなどのカウンターがあって、そこで荷物を預ける事ができる。それなのに”荷物を持って、バスで移動!”ガーンだ。ターミナル1、2、3、4a、4b、5、6、7、8、着いたときはもう1時半を過ぎていた。
とりあえず、Check inカウンターに並んだら、成田のごとく一向に進む気配がない。日曜日のランチタイム、人がいないといえば、当たり前だけど、それにしては進み具合が遅すぎる。ニューヨークのジョン・エフ・ケネディ空港のターミナル8にやっとのことで着いたが、重い荷物を担いで、歩いたのでもうはらぺこ!!!はやく今の状態を脱出して、あそこにみえるレストラン?で軽く食べたいと思うのに、、、事態は私の思うとおりに進まない。
また乗り出してきた、”そこはごり押し”の頭。周りには、同じ飛行機で到着して、ボストンに向かう男性のグループがあったので、ちょっと恥ずかしいなあ、とも思ったが、恥ずかしいとかそういう場合でないと腹を決めて、案内のお姉さんに”なんとかならないの”と事情を説明して頼み込んだが、取り合ってくれない。どうせよくあることなんだろうか。周りの冷たい視線がいやでも感じられる。
やっと自分の順番が来た。次の便は満席でスタンバイだという。再び”ガーン”。”1時間ごとに飛んでいるから、待っていれば乗れると思う。””思うじゃ困る!”とにかく、ゲートxxに早く行って待っていろ!”荷物を預けて、ゲートを目指すも、否応なく、食べ物を売る店に目が移るが仕方ない。遅くなって、暗くなってから車を運転したくないから、腹ごしらえはボストンについてからにしよう。
ゲートxxに着くと、また行列。もううんざりだと投げ出すわけにも行かない。トイレにも行きたくなったが、我慢、我慢。空腹と旅の疲れでだんだん、気分も滅入ってきた。
グループで来ている日本人たちは、やっぱり同士がいるせいか、リラックスしているように見える。でも私が今頼れるのは、自分しかいない。ここで弱音を吐いて、逃げ出したら、そうそう1年間の苦労が水の泡となってしまう。と言い聞かせて、ひたすら待つ。
カウンターの側にかじりついて、ただでさえ、聞きとりにくい、英語に耳をダンボのようにして待っていると、出発間際2時半になって、名前が呼ばれて、Boarding passをもらえた。やったあ。待ったかいがあった。早く乗れと急かされたので、トイレは機内でする事にして、とりあえず乗り込む。が、トイレなんてない小さなプロペラSAAB300だった。そうだ、人間何時も食事、排泄、睡眠の確保だけは心得ておかねば!とまたしても、思った。
機内では若いお姉さんが一人で張り切って仕事をしていた。アメリカのエアラインに乗ると、いつも思うのだが、笑顔が自然でいい、と書くとその業界の方からお叱りを受けそうだが、日本のサービス業界の笑顔って本当に気持ち悪い。顔で笑って、心じゃ馬鹿野郎って思っているみたいな笑顔が多い。もちろんなかには、本当に仕事を楽しんでやっておられる方も知っているが、、、私のマレーシアの友人も、よく同じような事を言っていた。“日本人って、いらっしゃいませって笑顔で迎えてくれるけど、本当に歓迎しているのかと思うことよくあるわね”
ボストンに4時近く到着するが、待ち合わせることにしていた友人Steveの姿が見えない。もっとも自分が遅れてきたのだから仕方ない。さあ大変だ、あてにしていたSteveがいないということはこれから最終目的地まで、一人で車を運転しなきゃいけないのだ。またしても”ガーン”。
ところが実はもっと恐ろしい事が待っていたのだ。Steveはいなくても、車を借りれば、なんとかリトルトンまで、行けるのではないかと思い、レンタカーのカウンターへ向かった。「マレーシアから予約を入れた者ですが」「パスポートと運転免許証を見せてください。」私は持ってきた、パスポートと国際免許証を見せた。と係の女性は「これ(国際免許証)ではお貸しできません。」「でもマレーシアでは、国際免許証を持っていくようにといわれたのですが。」「これは免許証(International
Driver License)ではなく,国際運転許可証(International
Driving permit)だ。」「ええーっ、でもマレーシアじゃ、日本の国際免許証だけでも乗れますけど(本当はどうなのか知らないが、少なくとも、以前警察の検問があった時は、それでよかったのを、思い出して言ってみた)」「どうしても借りたいなら、ジェネラル・マネージャーと相談して下さい。」「ジェネラル・マネジャーはどこにいるのですか?」「バスに乗って、メインオフィスまで行って下さい。」またしても“ガーン”たくさんの荷物を担いで、バス移動。もう空腹と時差で体がへとへとに疲れている。でもここでがんばらなくちゃ、もう少しなんだからって、自分を励まして、オフィスに向かう。
オフィスで待つこと、20分。ジェネラルマネジャーが現われる。ごり押しで、ここはなんとか、車を借りなくちゃ、隙を見せちゃいけない! 強気で押さなくちゃと思ったのもつかの間、事情を説明し終らないうちに、「マサチューセッツ州の法律では、免許証のない方には一切車をお貸しすることはできません。」と静かに言われた。法律を持ち出されては、この国アメリカではごり押ししてみたところで、だめだ。
車は借りられない!Steveはいない!では、自分はいったいどうすればいいのだ。せっかくここまで、やっとのことでたどり着いたのに、、、ふと、不覚にも涙がこぼれてきた。マネジャーは一晩ボストンに泊まって、明日朝、バスで行けばいいと親切に言ってくれたが、自分の頭はもうなにも考える余裕もなかった。「すみません、キャンプのオーガナイザーに電話したいのですが。」「そこに公衆電話がありますけど。」「使い方わからないのですが。」「(しょうがないなあと渋い顔をしながら)番号は?」といって電話をかけてくれた。
「ハロー」「ハーイ元気?」(なつかしい声が聞こえてくる)「実はこれこれ、こういうわけなんだけど、「どうしたらいい?!」「ちょっと待っていて」「Steveが5時にAA(アメリカン航空)の出口に、人を迎えに行くはずだから、行ってみてのせてもらうように頼んでみたら、、、」「でももうすぐ5時よ。」「やってみなきゃ、わからないわ。だめだったらその時また電話して!」
急げ、急げ、時計を見ると5時まであと10分くらいある。もしかしたら、Steveに会えるかもしれない。重い荷物を担いで、今さっき出てきた出口に向かった。バスを降りると、向こうにホルンと大きな荷物を持った人がいるではないか!私は駆け寄り、「あのケンデル・ベッツのキャンプに行くんですか?Steveはどこですか?」と聞くと、「Steveは今駐車場へ車を取りにいっていて、すぐここに来るはずですけど。」すると、ほどなくして、Steveがやって来た。バンサーイ!
Steveも約束の時間に私と会えなくて、ずいぶんあちこち探したりして、心配していたらしい。無理矢理のせてもらうことにした。ついでにどこか、トイレがあって、簡単な腹ごしらえができるところへ、まず連れていって欲しいと頼むと、McDonaldsへ行ってくれた。 McDonaldsで一息入れて、Steveの車でKBHCの開かれている、ニューハンプシャー州リトルトンに向かう。
以前ボストンに住んでいた妹に「今年はボストンからレンタカーで行くんだけど地図あったら、Faxで送ってくれない?」と頼んだら、「アメリカで一人で車に乗るなんて、危ない!カージャックにあったら、どうするの?ローガン空港からニュハンプシャーに向かう道は、成田から東北道に向かうようなもので、絶対道に迷う。無茶をするのはやめなさい!」といわれたので、去年もボストンから、レンタカーで来たSteveにメールを書いたら、すごく簡単、道に迷うことはありえない。という。まったく反対の様な事を言われて、正直迷ったがSteveの言うとおり、とても簡単だった。ローガン空港のターミナルを出ると、すぐインターステート93の標識があって、海底トンネルを抜けると、本当に一直線でリトルトンまで行ってしまった。
だいたいどこの国でもそうだが、空港から、有名な土地、場所というのは、まっすぐつながっている。KLでもシンガポールでも、空港と中心街はつながっている。初めてでもなんとかいけるようになっている。外国から要人が来た時の事を考えればいい。お上は庶民のことより、要人のことを考えて空港とか主要幹線道路とか作っているのだから、当たり前といえばそうなのだ。
リトルトンは日本でいうと北海道より北にあるせいか、8時になってもまだ日は暮れない。もう夕食は終わってしまったかもと、また食べる心配をしたが、KBHCに到着すると、BBQのにおいがしていた。「帰ってきた!」知った顔が何人もいる。 よかった、やっと着いた。うれしかった。これから1週間ホルン、ホルン漬けの毎日が始まる。
そうそうKendall Betts Horn Campについて説明しなくては!このCampの主催者である、Kendall Bettsはアメリカで、今一番の成長株オーケストラとして名高い、ミネソタ管弦楽団の主席ホルン奏者を、長く勤めてきた人である。フィラデルフィアのカーティス音楽院を卒業?と同時に、史上最年少の若さで、あのオーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団に入団するが、「おれはオーマンディがダイッキライ!!!」だったとかでやめてしまう。(本当なのか、単なるジョークなのかよく分からないが、私にはそういう風に言ったことがある。)日本には、フィラデルフィアのメンバーとしてだけでなく、ニューヨークフィルハーモニーのゲストプレーヤー(エキストラ)としても来日した事があるそうだ。実はその前から日本は大好きな国だったのだが、その話は後日にするとしよう。
その後、本気でビジネスマンに転職するつもりだったが、あるとき、ニューヨークの街でかかっていた、ミュージカルに、暇つぶしでホルンを吹きにいったら、そりゃそうでしょうとあちこちから声がかかるようになり、やっぱりホルンの道で生きて行こうと、オーディションを受けて入ったのが、今のオケだったそうだ。
彼のユニークな(と言われているが、本当はごくごく普通、むしろすばらしいやり方、考え方だが、時として、冗談が多すぎるためユニークになってしまう)ホルンに対するアプローチを、広く多くの人に伝えたいと言う気持ちが、KBHCになった。
最初、1995年山形の国際ホルン協会でレッスンを受けたとき、このキャンプに誘われて、その翌年は躊躇したが、97年に初めて参加した。とにかく朝おきてから、夜寝るまで、ほとんどホルンを聞いたり吹く毎日。食事時はお互いの紹介から始まり、近況から、悩みなどを話たりして過ごす。なんせ、テレビもコンピューターもない、周りに人家もなければ、お店もない。大自然の中に、ぽつんとある全寮制の高校を借り切ってのキャンプだ。悪く言えば、牢屋に入れられたようなものだが、本当にここは私にとって天国である。子どもの面倒は見なくていいし、家事もしなくていい。ホルンのことだけに集中できる。
うらやましいなあとおもったのは、何組かのカップルである。ご主人がホルン気違いであるケースが多かったが、その逆のカップルもあった。聞けば、所詮日本のカップルと、大差なかったが、気配りだけは、他人にもよくわかるくらい。さすがは以心伝心の国ではない。いかにパートナーを説得して、ここにやって来るか、みな気苦労をしている。だから誘った側に「俺・私のいうこときけよ」という態度はないし、誘われた方も「しっかりやれよ」と激励の応援団。
お互いの人生を尊重するパートナーたち、もちろんどこかでおりあわなきゃいけないけど、1年に一度のことだもの、なんだかんだいいながら、和気あいあいとやっているのが、本当にほほえましかった。
自分の人生って何なんだろう。夫の言う事を聞いて、子どもの面倒みるだけじゃないと思う。日本の社会では、だんなの給料は、多分の女房の給料より多いケースが、殆どだと思う。だけどそれが何なんだろう。金額が多いだけで、多い方が偉くて少ない方が偉くないんだろうか!!!そんなの不公平だと思う。と書くと馬鹿野郎の罵声が、聞こえてくるが、、、日本人の奥さんほど、自分の人生を犠牲にしてまで、家族に奉仕している人間はいないと思う。(これはどんな罵声を浴びようとも、声高々に言いたい。)ちょっと話題がそれてしまった。
着いたその日は、食事のあと、さすがに疲れからぐっすり眠れたが、あちらは朝4時半頃、日が昇るせいか、そのころいったん目がさめてしまった。クアラルンプールでは、1年中7時ごろ日が昇る。しかし、7時には、子供たちのスクールバスがむかえにくるので、明るくなってから、目がさめてしまっては、大変なことになる。どきっとして、時計をみたら、まだまだ2時間くらいはねむれそうなので、一安心してまた眠った。
6月15日(月曜日)
朝、1時間ほどウォーミングアップをするが、調子悪い。9時から、フランクフルト放送オケの大野氏のマスタークラスに参加する。朝から”マジオ”(この業界では有名なウォーミング・アップを生み出した人の名前)で始まる。いきなり冷たい水を頭からかけられたようで、すっかり目が覚めてしまった。10時からは、ご教祖?Kendallのマスタークラス。第1日なので、「呼吸法」である。息をたっぷりとって、一つの音をとても小さい音から大きい音、そしてまた小さい音にする。これはすべての点において、特に音程と音色をコントロールするために、非常に有効な練習である。それを順番に、みんなの前でやらさせるからたまらない。とてもはずかしくて後ろのすみの席で、聞いている。本当は出ていってやってみたいのは山々なのだが、たぶん、うまくできると思うけど、もしかしたらできないかも知れない、などと考えていると、もう足も手も出なくなってしまった。
11時からはバルチモア・シンフォニーのメリー嬢(と書くにはちょっと年が言っているが、アメリカ人にしてはとても若く見える。)のマスタークラス。彼女流のウォームアップを教えていただく。彼女には全部で、3回レッスンをしていただいたが、本当に楽しかった。詳しいことは最後の日あたりに書く。
12時半からランチ
1時半から3時半まではあのバリータックウェルのマスタークラスである。もう現役から引退してしまったけれど、彼の考えていることは、年期の入ったお酒のように、すばらしい。とくに音楽をどうやって作っていくかということに、重点をおいた指導だった。
4時から6時までアンサンブル。これは本当に一度やったら、やめられない。ホルンは一人で吹くより、大勢でやった方が楽しい。マスクワイアはキャンプの参加者全員60人でやる。あとレベル別に分かれてのアンサンブル。
6時半夕食。
7時半からはまたバリーのマスタークラスがあった。
8時半から10時までは講師陣のリサイタル。
この時間は時差ぼけのせいか、強烈な睡魔に襲われる。ほとんど寝ているようなものだったというわけで誰が何を演奏したか、思い出せない。部屋に戻ると、ほとんどバタンキューだった。と書くと平凡ではあるが、充実した1日のように見える。ところが実はいろいろあった。なんといっても、言葉!!!米語が使えない。自分の使っている英語ーマレーリングリッシュが、情けないくらい通じないのだ。もともとうまい方ではないから、仕方ないけど、しゃべっても相手にされない?!というのはつらい。それから、ホルン以外の話題となると、到底会話についていけない。質問しようと思っているうちに、タイミングをはずしてしまったり、、、ほかの参加者は質問をしたり、自分の考えをみんなの前で本当によくしゃべる!アメリカ教育のなせるわざである。帰る前の晩くらいに「Mami,英語が上手になったわね」といわれたのは 本当にうれしかったけど、なさけないという気持ちの方が大きかった。
この国で、言葉がつかえないっていうのは、この人「頭大丈夫かなあ」、と言うのと、ほとんど同じである。ただでさえ、「イエロー」などと、暗に馬鹿にされているのに、言葉ができないと、そう人間としてまともに扱われていないのと同じである、といってもいい。ホルンをどう演奏するかということもさることながら、英語をしゃべること、英語を理解すること。それさえもできない自分が本当に情けない。初日からすっかり落ち込みモードにはまってしまった。
6月16日(火曜日)
朝日が昇る頃(4時過ぎ)目がさめた。英語ができないのは、悔しい。それにもまして、Kendallのマスタークラスや、Barryのソロ・マスタークラスで「私にやらして下さい」と手をあげることができない、自分に苛立ちを感じていた。
若い連中は皆技術的にうまい。自分が奴等と互角に勝負するとしたら、(なんて考えること自体が間違っていたのだけれど、、、)勝てるのは音楽性しかない。でも自分の音楽性ってなんだろう。自分のやる音楽が受け入れられなかったらどうしようとか、今にして思えば、とんでもないことで悩んだ。
普通の常識を持った人なら、こんなおばさんが、一応マレーシアという、なんだか聞いた事のあるような、無いような国の「国立交響楽団の奏者」ということは、それなりにうまいはずと思っている。それなりにうまく吹かなきゃ、と自分でも思っている。そんな良く言えば自己顕示欲におぼれていたのだ。
間違ったら、皆の恥さらしになるとか、、、自分の身を守ること、かわいく見せることのみを考えていた。でもなんで自分はこんな牢獄のようなキャンプにやってきたんだろう。って考えた。うまくなりたいからだ。うまくなるためには、奇麗事ばかりではうまくならない。血のにじむような、まるで星飛雄馬(と書くと若い方たちには、わからないかも知れないが、私が小さい頃、はやった漫画の主人公の名前である)のような世界がひつようなのだ。それは肉体的にだけでなく、精神的にも、この際ずたずたになって、傷ついて、どん底まで落ちて、這い上がった者だけが生き残れるのだ。今日こそは自分を奈落の底に突き落とさなくては、と思い直し、軽く寝る事にする。
6時ごろまた目が覚めたので、身支度を整えて、7時にはウォームアップを始める。ところが音すらもでない。絶不調。これではマスタークラスを受けようにも受けられない。もうほとんど奈落の底に落ちたも同然である。改めて、今の自分に何が必要なのか考えて見る。空気、そうだ、空気だ。唇は振動しなくても、空気があればなんとかなる。
隣の部屋からは、朝から、ばりばり吹く音が聞こえて来る。これが「国立交響楽団のウォームアップ」かと思われたら、なんて思う事はもう止めようと思った。ここにきたら、みんなホルンがうまくなりたい病人なんだ、症状こそ違うけど、、、そう思うと満足な結果ではなかったが、少し気が楽になった。
朝ご飯を終えて、とりあえず大野氏のマスタークラスに参加、昨日に引き続き、マジオの続編。なぜか昨日より低音域の調子がいい、高音域もさっきより楽に出る。こりゃもしかして、やっぱり、息をたっぷりすって、空気を送り込んでいるからだと、思った。
10時Kendallのマスタークラス。やっぱり教祖様は恐い。だめだ。体が硬直してしまう。昨日の続きで、呼吸法のチェックである。仏像のように一番後ろのほうに座っていた。
11時Maryのマスタークラス。いきなりなんか吹いてよ、と言われたので何がいいでしょう。といったら、じゃあ、モーツアルトの4番吹いてよと、言われて面食らったが、清水の舞台にたったつもりで吹く。絶不調は乗り越えたみたい。強弱をもう少しつけた方がいいわねえとアドヴァイスをいただく。本当はもう何年もさらっていない曲だったので、内心、真っ青だったのだが、先生が女性ということもあって、吹いてみた。昔、できなかったことのいくつかが、できたせいもあって、少し気持ちが楽になった。
1時半。ランチの後、ついに意を決して、Barryに「実はシューマンをみていただきたいのですが」といってみる。私の世代では、Barryはやはり神様のような存在である。そういう方に素面でお話するだけでも、緊張して、声がふるえて、吃ってしまうのに、聞いていただくだけでいい、そこで真っ裸にされて、皆の前で大恥じかいたら、それはそのとき、自分の思うシューマンをやろうと決めた。
演奏家にとって、お客さんがどれくらい喜んでいるか、楽しんでいるかということは、演奏している時にわかる。と私はおもっている。自分が意外と集中している時、集中できている時は、お客さんも集中して、聞いて下さる。
シューマンを演奏しているときは、7、8人が聞いていたが、少しは手応えがあったかなあ、と思った。それは、正統派からあまりにも離れている演奏で、はっきり言えば、自己流ってやつだったが、Barryはまるで自分の父親のように、やさしく静かに、でもはっきりと、私の欠点、間違いを指摘してくれた。うれしかった。自分が思っているより、自分は悪くないということがわかった。
ところが、おもわぬことにBarryは予定を変更して(近所で竜巻が起こったそうで、家族と家が心配だからということで)、帰ってしまったのだ。でもよかった。本当によかった。他人からみたら、そんなばかなことでなやんでいたのと笑われそうだが、、、あの時、清水の舞台から落ちる気持ちを、起こさなかったら、Barryには、私の演奏を聴いていただけなかったのだ。何事も当たって砕けろとは、良く言ったものだ。
4時からはアンサンブル。
8時半からはこのキャンプの目玉、教祖のギャグコンサートがあった。大爆笑の連続。でも本当はホルン吹きの煩悩をギャグにしたもので、なんだか自分の葛藤を第3者が、みているようで感慨深かった。なんていったら、教祖には失礼かもしれないが、、、
”成田を出る。もし飛行機がおちたら、自分が死ぬとしたら、どうなるのだろうか。もがき、あがき、最愛の人の名を呼び続けるだろうか。しかし、それも無駄な徒労におわり、来るべき瞬間をむかえるのだろう。
死ぬのはいやだ、生きていたい。しかし、自分がこうして生きて、飛行機にのって旅立つことに、何の意義があるのだろう。三流のオーケストラのホルン奏者として何の価値があるのだろう。この数年はいつもこの自問自答のくりかえしだった。答えを求めるために、自分の存在価値を見出すために生きてきたようなものだ。
今は、すべての事がうまく行かない。私の人生はいつもその繰り返しだ。Da Capoーはじめからやり直せるものならやり直したい。”
夜、コンサートが終わり、自分の部屋に戻り、(これは私がキャンプに着いた晩に書いたものだが)これを読み直して、自分はとんでもない、考え違いをしていたと思った。確かに、有名なオーケストラで仕事をするほうが、生きている価値が見出せるかもしれない。でもクアラルンプールに戻って、私のようなものでも、待ってくれている人がいるとしたら、私の生きている価値はそこにあったんだと思う。私の演奏でも料理でも言葉でも、喜んでくれる人がいれば、それで充分、生きている価値があるんだと思う。
人間の生きている価値って、一人でも喜んで下さる人がいる、って事なのかもしれないと思うのだが、間違っているだろうか?!
6月17日(水曜日)
前日までとうってかわって、リラックスした気分で、朝を迎えたのは、水曜日ー午後はハイキングだったからか、または、今私が一番好きなホルン吹きGregのクラスを、受講できるからだったからかもしれない。
朝食のあと、ダラス交響楽団のGregのクラスに参加する。彼とは84年に山形で出会った。それまで名前さえも知らなかったが、私の求める、音色、音楽をやっている人だ。Kendallとは同じ学校、同じ先生で年もほとんど同じらしいが、性格はまったく正反対。
彼の言う事は、以前私が習ったDale(シカゴ交響楽団主席)とよく似ている。”自分はその音楽の何を、どのように表現したいのか、とにかく考えなさい.””肉体的な要素、精神的な要素、音楽的な要素、この3つが、うまくかみ合った時にいい演奏ができる。”だから普段から、この3要素をバランスよく、鍛えよと言うわけだ。
面白い話を聞いた。受講生の一人がどうしたら高音域がうまくなるのでしょうかと、聞いた。ホルンを吹く人なら、一度はぶつかる問題で、普通だったらいろいろ口の形はああだこうだ、喉は、という先生が多いのに。。。彼は、その昔彼が若かった頃、高音域があまり得意ではなかった(と彼は言う。Gregは若いころから、優等生だったとKendallは言っていたが)。ところがそのころ付き合っていた彼女が、高音域がとても上手で(これは内緒の話だよ、と言いながら)なんとかして自分も彼女のようにうまくなりたかった。(そうしないとふられてしまうとおもったから、、、なんていいながら)そこでありとあらゆる方法を試みて、練習して、なんとか今のようにできるようになった。というのだ。
つまり彼の言わんとするところは、なにかきっかけがあれば、難しいと思った事でもできるようになる。ということである。ホルンの世界、高音域の征服というのは、ほとんどの人が抱える悩みである。でも所詮人間の体を、いかにコントロールするかによって、得られるこのテクニックは、自分で、肉体的にも精神的にも悩み苦しみ抜いた者が、習得できる?!私もそう思う。
なんだか日本人の好きな根性の世界にも似ているがちょっと違うと思う。根性だけでは、高音域は習得できない。情報収集とTry&errorの世界であると私は思っている。Aという練習方法が、他の人にすごく効果があっても、それと同じものを、期待してはいけない。まずはやってみること、しかも2,3日ではだめで、半年なり、1年くらい続けなくては、いけない。それでだめなら他の練習方法も試してみろ、ということだ。
それからKendallがいつしか言った言葉,”人間はみんな違うんだよ”。日本の社会は、”皆平等、同じ”と教わる。だから”村八分”とか、”あの人はちょっと変わっている”という言葉が、よく使われる。でもKendallに言われて、こんな年になって気がついた。人間、みんな違う。同じ日本語をしゃべっていても以心同心と言われても、本当は顔形が違うように、考えている事も、言葉の使い方も違うんだ。だから人に、はなすとき、あるテクニックを生徒に伝えるときは、なるべく”自分はこう思うけど”とか”自分はこう考えるけど”というように心がけている。自分が使っている日本語を、相手が同じように使うとは限らない。要するに自分と同じやり方で、他の人がうまく行くなんて保証はないのだ。
もう一つGregが言った面白い言葉ーそれは、”先生の言う事は100%信じてはいけないよ”。これも上記のアイディアに通じるものだと思うが、先生と言ったって、所詮、人間だから間違えることもあるし、言葉のニュアンスだって違うし、絶対ではないのだ。先生は時として必要悪になり得る。世界の名高いプレーヤーの言うように、”The best teacher is you yourself-自分にとって最高の先生とは自分自身である”本当にそう思う。
高音域というと、もう一人、かってカナディアン・ブラスとエムパイア・ブラスで活躍し、現在はオーディションを受け直してヴァンクーヴァー交響楽団の主席に返り咲いた、Martyも、自分は高音域が苦手だと言っていた。彼もGregと同じように、いろんな方法を試みて、今のように吹けるようになったと言っていた。面白いことは、2人とも、音楽的な表現―メロディを歌って、聞かせるのがとても上手い。もちろん指をばりばり動かすテクニックも持っているけど、きっといろいろな努力の末に、音楽家としてあるべき姿を、得ている方たちなのだと、思う。
Gregのクラスのあと、再びMaryのクラスに参加する。ちょうど集まった受講生が4人だったからか、アンサンブルでもやらない?!と言われて、バッハのイ短調のフーガをやることになる。私はもともと低い方を吹くのが好きだし、低音部記号を読める人はあまりいないだろうと思い、真っ先に4番パートを志望した。
曲は知っていたが、楽譜をみて真っ青、楽譜が真っ黒なのである。この場合、楽譜が真っ黒とは、音符がたくさん書いてあると言う意味だ。メンバーは1番が、もう現役は引退してしまったスクールバンドの先生、2番は大学生、3番は小さな街の音楽の先生、4番は私でとりあえず吹いてみる。いい曲だけど、フーガは難しいなあ、などと思っていると、Maryがなかなかいいから、土曜日のコンサートで吹いたらと言う。一同、OKということで、この年齢層が全く違う4人の、インスタント・ホルン4重奏団が誕生する。
今年はそれにしても、天気が悪かった。去年は毎日、晴れて、気温もかなり上がったのに、今年は毎日、雨が降る。今日も朝から雨。ハイキングは中止となる。
Steveが街にいかないか、と誘ってくれたので、2時ごろから、Littletonの街に出かけた。特に用事はなかったけれど、久しぶりの街は気分転換になった。アメリカでも郊外に出れば、やさしい、おばさん、おじさんが小さな店を切り盛りしていて、"Hi, How are you doing"と気さくに声をかけてくれる。いろいろな店を覗いて、古着屋さんで、スラックスを買った。見た感じは、殆ど新品なのにたったの8ドル。どういうルートでこのお店にならんでいるのか、わからないが、小さい赤ちゃんの洋服から、大人の洋服、靴、バッグなどあって、普段着だったら、この店で充分調達できるという感じであった。
ところで、いつも思うことだが、アメリカ人とか白人(あんまりこの言葉使いたくないのだが)って、意外と、日常生活の中で、公私をはっきり使い分けている。家の中では、リラックスしていても、公の場所でパーディとかとなると、目いっぱいドレスアップ、メイクアップするし、子供のしつけでも、public place(公の場)では、大きな声を出してはいけないとか、しつけの仕方や言葉遣いが違う。日本は、なんとなく公私の区別がなくて、いやだなあと思う時がままあるが、仕方ないか。いや、少なくとも、お子様天国だけは、止めて欲しい。レストラン、スーパーマーケット、電車などで、走り回ったり、ふざけているのを見て見ぬり?これはしつけの問題ではないだろうか?!(また話題がそれてしまった。)
台所用品だけの店にも行った。お料理好きの私にとっては、欲しいものがいっぱいあったが、手に持って帰るには、航空会社にお金を払わなければならないし、郵便で送っても、税関に取りに行って、税金をたくさん払わなければいけないので、夢だけ買ってその店を出た。
3時過ぎに戻り、練習室で練習していると、4時半から、Jeanのヨガのクラスがあるから、来ないかと誘いがある。ヨガかあ、あんまり興味はなかったが、なんとなく体が疲れていたし、引かれるものがあって行った。Jeanはボストン地域で活躍しており、特にナチュラル・ホルンの名手として知られているが、去年のこのキャンプでの印象は、今一つだった。ところが、実は今年は、結局彼女のおかげで、私は救われたといっても過言でないほど、いろいろ教えていただいた。
世界中の音楽家の中でも、ヨガやアレキサンダー・テクニックを勉強している人は、多い。Jeanも、あるとき、壁にぶちあったって、ヨガを始めたそうだ。呼吸法だけでなく、体にやさしい奏法を身につける、結局、楽して吹くことで、音楽に集中できるようになる。そういえば、Gregもなるべく、楽をしてホルンを吹くこと(make it easy)を考えていると言っていた。楽器は重いし、マーラーやR.シュトラウス、ワーグナーなどは、本当に肉体的にキツイ。若い時はなんとか馬力、根性でいけても、年を取れば、そうも行かない。
軽く、体をほぐすことから、始めて、体のいろいろな部位の動きを意識することから始まった。そのうち、肩凝りのひどい人、首が痛い人、腰痛の人、などいろいろな体の症状を訴える人が出てきた。私もご多分にもれず、肩凝りがひどく、Jeanは体に無理した奏法で吹いているからだと、静かに言った。体に力ばかりいれて、入れた力が演奏に結びついていない。Jeanはまるで、神様のように、ひとりひとり、やさしく手を差し伸べて、悩みを聞いてくれて、それから静かに、諭すように「無理してはだめよ」と言って、体をいたわってくれる。
うれしかった。私は宗教家ではないけれど、人は誰でも、1人では生きていけない。いつも救いを求めていると思う。なかなか言えない自分の悩みを、こんな風に理解してくれて、すぐには直らなくても、直すように導いてくれるなんて、なかなかない。ここに講師としてきている人たちも、皆、苦労なしにはここまで為し得なかっただろうと、思うと、涙がこぼれてきた。苦しみ、悩んでいるのは自分だけではない。とわかっただけで、どんなに救われることだろう。
夜は、ナチュラルホルンのコンサート。
その昔、今のホルンになる前の、シンプルなホルンで、名曲の数々が演奏されるのを聴きながら、やっぱり自分はここに帰ってきて、よかったと思った。
6月18日(木曜日)
朝再びGregのクラスに顔を出してから、Maryのクラスで、ホルン4重奏の練習。そこに、Julieが顔を出す。Julieは、現在、知る人ぞ知る、インターローケンのアートアカデミーで、ホルンを教えている。この学校は全寮制の高校で、全米から、音楽、美術、演劇、文芸などで優れた生徒が集まってくる学校として有名で、この高校から、すばらしい芸術家がたくさん誕生している。さすがに教えるのが上手い!なんかうまく行かない、なんかものたりないなあ、と思っていると、非常に的を得たことを言ってくださる。フーガを演奏する場合は、4人がテーマとなるメロディを同じように吹くこと、誰かがテーマを吹いている時は、よく聴くこと。誰でもわかっているようなつもりで、なかなか実行に移せないことをしっかり指摘してくれた。彼女も忘れられない、すばらしい講師陣の一人だ。
今日もJeanのヨガクラスがあるというので、もうこれは、絶対行かなくては、と決めて参加する。集まってきたメンバーは、それなりに上手な人たちばかりだと思ったが、皆それぞれに、悩んでいるようだった。しばし、ヨガとその神秘な世界に浸った。
午後は、Jeanのナチュラル・ホルンのクラスに参加した。そして、始めて私たちの楽器の、先祖とも言えるこの楽器を演奏してみた。とにかく、楽器が軽くて、思っていたより、吹きやすい、歌いやすかった。特にこの楽器を使用していた頃の曲は、やはり、この楽器で吹くほうが、それなりの難しさはあるにしろ、自分としては吹き易いのではないかと、感じた。私は、ブラームスのホルントリオのさわりの部分を、やらせていただいたが、今の楽器で吹くより、バイオリンとあわせ易いだろうし、自分の音楽が自由にできるのではないかと、思った。
大自然に囲まれた、このキャンプのなかで、自分の体、音楽、考えが、柔軟になり、自然と調和していくような感じを覚えた。
夕方、明日金曜日の生徒のリサイタルで、モーツァルトのホルン協奏曲第4番の2楽章を吹くことに決めた。なんの気負いもない、ただ、自分の音楽がしたい、それだけだった。
夜のリサイタルは、講師陣の演奏、そして、最後は、お決まりのシューマンの4本のホルンのための小協奏曲。本当にこのキャンプに集まってくる講師は、皆よく言えば、個性の固まりのような人たちばかりで、誰として、同じ様な人はいない。みんなそれぞれ自分の考えをしっかり持っていて、なおかつオープンで気さくな方たちばかりである。いろんなタイプの先生がいるので、一人の先生とウマが合わなくても、必ず一人くらいは、自分と気の合う先生が見つかるし、毎日、違う講師を選べるようになっているところが、いいと思った。きっとKendallの人柄によるところが大きいのだろう。
6月19日(金曜日)
朝、夜のリサイタルに参加する生徒は、ケンデルのレッスンを受けるようにと言われる。モーツァルトの協奏曲は、学生時代から、何度も試験やコンサートでやってきたが、やるたびに新しい発見をする。モーツァルトは嫌いではないが、難しい。小さいころ、モーツァルトのピアノソナタが大好きで、好んで弾いていたことも、あったが、今から考えるとすごい自己流だったと思う。そのころは、モーツァルトがどういう人かまったく知らなかったし、とにかく何も知らないで、自分の気分の趣くまま弾いていた。ホルンもつい最近までは、めちゃくちゃやっていた。
やはり、マレーシアに来て、周りにホルンを吹く人がまったくいない、長いブランクのあと、一から初心者に戻ったように始めたことが、ホルンについていろいろ知らなくては、と思うきっかけだったと思う。いつも一人で練習して、本を読んだり、CDをきくだけではいけない。そう思って、国際ホルン協会に入会した。また、入ってくる仕事は、神様(のような存在があるとしたら)が与えて下さった、勉強の機会だと思い、なんでもやってみた。いきなり、こちらのオケと一緒に、モーツァルトやR.シュトラゥスのコンチェルトをやってみないかという話も舞い込んできた。
とても吹ききる自信はなかったが、今考えてみると本当にいい勉強をさせていただいたと思っている。人前で演奏することは、一人、部屋で練習するよりも、はるかにいい勉強になる。昔、Daleによく言われた、「老人ホームでも、孤児院でも、保育園でも、どこでもいいから人前で吹くこと、もし演奏家になろうと思っているのなら、どんどん場所を探して、人前で吹かなくていけない。」と。
音を出すだけならば、なんとかなるだろう。でも聞きに来て下さった人たちが、「ああ、あなたの演奏を聞きに来て、よかった。」と思っていただけるような、演奏をするのにはどうしたら、よいのだろうか。いつも悩むことである。今日は、モーツァルト、それもよりによって、4番の2楽章。今晩はKendallのアイディアで、モーツァルトの協奏曲全4曲と、コンチェルト・ロンドを皆が、分担して演奏する。殆ど、高校生、大学生といった若い人たちに交じって、4番の2楽章を演奏する価値は一つ。最初のメロディ、そして中間部の調が変わって行く、色合いなどをじっくり歌い込むしかない。そう決めると、後は楽譜とにらめっこである。私はいつも、(これが正しいとは思わないが)まず、すべての音が楽譜に書いてある通り吹けるようにする。それとともに演奏のアイディアをどんどん書き込んでいく。フレーズをどういう風に歌うか、クレッシェンド、ディミヌエンドの度合いはどうするか、など事細かに決めていく。簡単にいうと演奏のマニュアル化である。なんて書くと?と思われるかもしれないが、音楽や演劇は瞬間にして、消えてしまうものなので、失敗は許されない。これは、ある時エアラ インのパイロットと話をしていて、気が付いたのである。
ピアノの伴奏はSteve,彼は本当に伴奏が上手い。いつも思うことだが、ピアノという楽器は、小さい頃から、一人で練習するので、人と合わせるということはなかなかない。だからかもしれないが、ピアニストでも、伴奏や室内楽が上手い人というのは、なかなかいない。また、彼は、ホルンの曲の伴奏は殆ど、国際ホルン協会のワークショップなどで、てがけているので、ホルン吹きのくせなどもよく知っていて、かゆいところに手が届くような、伴奏をしてくれる。アンサンブルの楽しみを知っている人なので、やっていると、本当に、音楽を楽しくしてくれる人である。また、Kendallのキャンプのように、皆がいやがるようなどんな難曲でも、毎晩、違う曲を2時間、3時間、2週間ぶっ通しで、やってくれる、それだけでも貴重な存在である。
レッスンでは、まあまあの出来であった。Kendallは特になにもいわなかった。いつものどちらかと言うと、恐い感じの顔と違い、やさしい顔だったので、これでいいんだと思った。ただ、最後の終わり方を、kendallはすこし遅くするように、と言った。私はテンポのまま終わりたいといったが、少し遅くしたほうがいいよ、というので、そうすることにした。
その後、Julieのクラスをのぞいた。若い人たちが、私、昔悩んだことで悩んでいる。皆がああしたら、こうしたら、といろんな意見をしている。若い時はなんでも、がむしゃらにさらわなきゃいけないと昔、いわれたことがあった。でも自分の悩み、迷いを誰かに打ち明けたりする場所はなかったと思う。特に私の行ったような学校は、みんながライバルと言う感じで、できないのは、練習が足りないか、根性がないとかで済まされていたような気がする。自分の悩みとか、苦しみというのは、所詮自分で解決しなくてはいけないが、だれかに話してみる、同じ様な悩みをもつ人がいるとわかるだけで、大分楽になるものである。短いこうしたキャンプの一番いいところというのは、やはり、同じ悩みを持つもの同士に出会えるというところかもしれない。
午後は久しぶりにリラックスして、夜を迎える。
自分の順番は4番なので、当然最後の方。皆、本番を前に緊張している。人の演奏が上手に聞こえる。若い頃は、「どうせ自分は上手くない」とか「やっぱりだめだ」などと、思った。すると不思議なもので、だめだ、と思えば、思うほど上手くふけない。本番の前は、ひたすらなにも考えずに、音楽、今日これから演奏する音楽のことだけを考えるようにしている。また、深呼吸は欠かせない。体がリラックスするし、神経が落ち着くので集中できると思う。
やっと自分の番。去年は実はこの場所で穴があったら、入りたいほど、ひどい演奏をやらかしてしまった。だから、今年は、2度とあんなひどい演奏はしたくないと思っていた。
最初のメロディをなんとか無事にこなす。中間部は、控えめにはやる気持ち、盛り上がる感情をおさえながら、最後はゆっくりと終えた。拍手が底から沸き上がるように聞こえた。Gregが「すばらしいフレージングだった」といってくださり、他の講師の方々や、いままで口をきいたことのなかった人たちからも「よかった」といわれた。自分でも不思議なくらい、息が吸えて、音楽に集中できたし、みんなもよろこんでくれたみたいだったので、よかったのだと思った。
6月20日(土曜日)
朝は、夜のアンサンブル発表会の練習。会場は近く小学校の講堂である。と書くと日本の学校の体育館を思い浮かべてしまうかもしれない。アメリカの学校はどこもというわけでは、ないが、結構設計とか凝っていて、外から見ると、学校とは思えない建物がある。今日アンサンブル発表会をする場所も、外から見ると、ちょっとなんの建物かわからない。こじんまりとした平屋建ての学校で、講堂は椅子が、200くらい並ぶ程度である。しかし音響はわるくない。
ここで、私は、ホルン4重奏―バッハのイ短調のフーガ、ホルン8重奏―ワーグナーのラインゴールド抜粋、それに毎年恒例の全員合奏のシューベルト、スティグラーのフェスト・ファンファーレなどを演奏する。
午前中のリハーサルではバッハが上手く行かなかったが、本番でも殆ど止まりそうになってしまった。自分のパートがちゃんとふけていないせいもあったが、みんなが、勝手に吹いているような気がした。このアンサンブルでは、一番年上の人(決して悪いひとではないのだが)が、1番ホルンを吹いているせいか、または、自分の言葉が上手く通じないのか、なにか言ってもちょっとピントがずれてしまう。あるパッセージが、走っている(速く弾かれる)といったら、じゃあメトロノームに合わせて練習しようと、いう。私はもう少し、みんなが聞きあえば、何とかなることなのにと思ったのだが、、、アンサンブルというのは、うまくいけば、楽しいが、うまくいくには、与えられたパートはちゃんと演奏するとともに、自分を押さえてお互いの意見、やり方を認めるようにしなくてはうまくいかないと、つくづく思った。
コンサートの後は、パーディ。(アメリカ人は、日本でいう「飲み会、宴会」もパーディという)あっという間に1週間のキャンプが終わってしまった。大野さんが、「そういえば、Barryがマレーシア人のMamiという人、なかなか、よかったっていっていたよ。というので、あれは日本人だよ、といったら、びっくりしていたよ。」と教えて下さった。どうしてびっくりしたのかわからないが、とにかくいい印象を持って下さったのかと思うと、とてもうれしかった。もうこのときとばかり、みんな盛り上がった。
部屋に戻るともう午前1時近い。明日朝は、Bill(このキャンプをさせていただいている White Mountain Schoolで働いているが、音楽が大好き)が、朝5時に迎えにきて、Concord(ちょうどBOSTONと、このキャンプの場所の中間地点)のバスステーションまで、送ってくれる事になっている。万が一に備えて、荷作りは終え、いつでも出られるように、普段着でベットに仮眠するという約束であった。もし約束の時間に現れなかったら、部屋のドアを開けて、何しても?!?!いいという約束でもあったから、とりあえず、荷作りに取りかかる。
しかし、飲みすぎた。コンタクトレンズの右側をどこか!!!!!に落としてしまう。これで調子は一気に下降。懸命になって探すが、グテングテンに酔ってしまった今となっては、もうどうしようもない。一応荷物を、入れてはひっくり返しながら、1時間近くかかって、探してみたけれど、徒労に終わってしまった。とりあえず、ふたをするともう3時近く。いいやあ、Billがおこしてくれるからと思い、ベットに横たわる。
6月21日(土曜日)
ドンドンドンドン。夢の中で音がする。ドンドンドンドン、今度は私を呼ぶ声もする。
はっと、気が付くと目の前にBillが立っている。ぎゃあという暇もなく、あちらもさすがに本当に眠っていたとは、思わなかったよう。とにかく、荷物をおろし、出発。Concordまでは、ほとんど寝ていたせいか、あっという間についた。バスステーションはとてもきれいで、とりあえず、コーヒーを買って目覚し。ああ、アメリカンコーヒーって本当に薄い。これでは、目が覚めないとおもいきや、バスが到着。お客さんは6人。殺人をするような人相の悪い人は、いなそうなので一安心。(と書くと怒られそうだが、アメリカではバスにのるのは、たいてい中より低所得者が多いので、結構恐い。昔シカゴに住んでいた頃は、いつも白人の老人の側に、立っていた。)
バスがボストンの市内に入る頃、濃い霧が見えた。いやな予感がした。そうだ!ボストンの空港は海沿いだったっけ。こんなに深かったら。空港はひょっとして、、、いままで、なんとなくぼんやりしていた頭が、急に動き出した。友人がよく言っていたことを思い出した。シンガポールは視界600Mでも、おりられるが、KULは800Mだとか、離陸は着陸よりすくなくとも飛べるがとか、、、目をこらして前方をみてみる。どうみても視界は4、500Mである。これでは到底離着陸はできまい。
バスはボストン・ローガン空港に近づくにつれて、視界がますます悪くなる一方だ。バス旅行は快適であったが、空港に着くと前の便は、思ったとおり欠航だった。とりあえず、Checkinだけはすませ、往路の経験から、腹ごしらえとトイレをまず行う。
案の定、乗る予定の飛行機は、予定の時刻(9時30分)になっても降りてこない。一目で日本人と分かる方が、なにやら、カウンターの人と話している。どうやらシャトル便でラ・ガーディアに向かうようである。(シャトル便は、ジェット旅客機で、大きな機種のせいか、多少の視界が悪くても離着陸ができるのだろう)
すると、他の人々もシャトル便に、切り替え始めている。
カウンターの人の説明によれば、乗る予定の飛行機は、ボストン上空付近で霧が晴れて、着陸するのを待っているという。(いわゆるHolding)そうか、ということは、キャプテンは出発地に戻る、というより、なんとかBostonに降りる気持ちでいるなあと感じる。でもこの霧でというくらい、深い。ゲートからタクシーがみえないのである。アメリカはいくらたくさん飛行場があるといっても、Holdingということは、なにがなんでもそのキャプテンは降りる気でいるなあと思った。まあ小さい飛行機だから30分くらいは待つかなあ、どうかなあという感じであった。
一応、乗り継ぎ便が13時10分だったので、往路の教訓を生かして、乗り継ぎには1時間とすれば、11時までに出られればいいか、ということは10時20分(日本の国内線とかは、たいてい40から50分くらい、で折り返ししているのを知っていたので)までにその飛行機がついてくれれば、なんとかJFKの乗り継ぎにも間に合うかと、最初は、どちらかというと余裕であった。
ところが10時を過ぎても、霧は一向に晴れない。飛行機の離着陸のけはいもない。おいおい、どうするべ。この飛行機が遅れて、接続のJALに乗れなかったら、自分のチケットは、ものすごい安いカテゴリーなので、あす、あさって、席がある保証はない。そしたら、NYのどこかのホテルにStayしなきゃいけないのだろうか。そんなのんきなことは言っていられない。ボスには23日の夜の練習には必ず出ますから、と言ってでてきたし、子供たちは24日にキャンプから戻って来る。おいおい、乗り遅れたら云十万円払ってマレーシアに飛んでかえらなきゃいけないのか。どうにかして、この霧、吹き飛ばせないものか。だんだん往路と同じように、気分が滅入ってきた。出発予定時刻は午前10時にもかかわらず、ニューヨークからの便は、すでに45分近く上空でHoldingしているらしい。
そろそろなんとかしないと接続の成田行きに乗れない。外をみると、先ほどよりは霧が晴れてきた。視界がよくなって、Taxiだけでなく、滑走路まで見えてきた。それまで、まったくといっていいくらい、動きのなかったtaxiにたくさんの飛行機がやってきた。このぶんだと、上空でHoldingしている、私の乗る予定の、飛行機はまもなく降りて来るに違いない。滑走路も見えてきた。私はシャトルでなく、予定通り遅れているが自分のフライトで、JFKに向かうと決めた。
しかし、実際におりてきたのを確認するまでの時間は、すごく長く感じられた。すべては運任せ。降りてきても、飛行機の具合が悪いからと、いって飛ばなかったら、それこそ悲劇というものだ。たとえ飛んだとしても、無事JFKに降りられるという保証はない。時刻は午前10時20分。すべてが順調にいけば、なんとか接続に間に合う。しかし、だめだった場合は、それはその時考えようと決めた。本当に人生何が起きるかわからない。いつも良い方に良い方に考えていないと、苦しくなる。
ほどなくして、折り返し便が到着。搭乗のアナウンスがされる。飛べる!はやる気持ちを押さえながら、階段を降りる。ところが搭乗しても、窓越しに見える荷物は一向に積み込まれるけはいがない。時計を見る。10時40分。なんだよ。早く荷物つんでくれよ。荷物はどうでもいいから、人間だけでも運んでくれよという気分。そこへジャンプシートのクルーが、10人ちかく乗り込んで来る。狭い機内の半分は制服を来た人たち。そとの荷物を飛行機に積むべき人は、のんびり話をしている。「あのねえ」とどなりたくなるが、、、どうしようもない。日本人は、マレーシアの人は仕事の仕方が、うんぬんとよくこぼされるが、ここボストンだって、おんなじような感じだ。下手したらマレー人の方が、一生懸命仕事しているかも、、、
隣に座ったおじさんが、「Are You American」と聞く。今日は隣の人となんか話すって気分じゃないのよねえ、と思いながら、「No,I am Japanese.」と答える。おじさんはお仕事でアルゼンチンから来たらしい。いつもなら、こういう場合なんとなく世間話をするのだが、もういらいらの極地-そこの兄ちゃん、だらだらしゃべっていないで、荷物積んでよ!!!結局ドアが閉まったのは11時過ぎていた。もうどうにでもなれえと、なげやりな気持ち。上空に上がると、前夜ほとんど寝ていなかった事もあって、急に眠くなった。
プロペラ(ATR)で小さい飛行機のせいか、よく揺れる。どのくらい眠っただろうか。結構大きな揺れで目が覚める。どうもそろそろJFKに降りるらしい。もう時計は見たくなかった。何とかなるだろうと言う気持ちもあったし、だめだったらその時に考えたかった。いい天気なのによく揺れて、目も頭も覚めたころ、JFKに降り立った。Air Franceのコンコルドがみえる。接続便の鶴の翼も私を待っているかのように見える。
時計をみるともう1時を過ぎている。滑走路からAAのゲートまでは遠い。機内から出たときはほとんど1時10分を過ぎていた。とにかく行かねば!走って、荷物を拾うところまで来た。いらいらが募る、待っている間に、JALに電話してなんとかしなくちゃとひらめくと、Lost baggageのお姉さんに「すみません。私1時30分のJALにのる予定だけど、荷物がまだ出てこないの。JALに連絡したいのだけど、電話貸してくれない?」とたずねると、お姉さんは、「荷物を拾うひつようは無いよ。シャトルバスに乗って、早くターミナルへいきなさい。」と親切に言ってくれた。
シャトルバスのバス停に行くと、さっき飛行機で一緒だった、ジャンプのクルーが待っている。今度は何とかなる、次の停留所がターミナル1だから!バスがターミナル1に着くと、ものすごい日本人の数。きっとついたばかりなんだあ、少し安心するがとにかく行かねばならない。出発ロビーに上がるエスカレーターが壊れていて、急な階段?をかけあがり、やっとのことでCheck-inカウンターにたどり着いた。どうやら間にあったようである。
どうも出発が遅れるらしい。カウンターのお姉さんに禁煙席の通路側を、希望するが、いっぱいでないという。そこはごり押しで押してみたが、ないものはない。仕方がないので、喫煙席でもいい、と言うと、搭乗券をくれた。これでのれる、ということがわかり一安心。とりあえず、トイレにいく。
ところが出発前に、もう1回小さなトラブルを起こしてしまった。ニューヨークのJFケネディ空港に、やっとの思いでたどり着き、あたりを見回すと、いるわいるわ、すごい日本人の数。そりゃ、当たり前。1週間日本人がほとんどいないところにテレビもコンピューターのないところにいたので、日本人がやたら目につく。ああ、やっと自分は帰るという気分ー1週間のキャンプは、長いようであっという間だった。つらいこともあったが、本当に有意義で楽しいキャンプだったという感慨ーに浸りはじめた。
乗る予定の005便はまだ、ケータリングを積む作業をしている。これなら買い物もできるし、ビールも飲めるかなあ、とまずは新しくできた、ターミナルの散策。まだオープンしてまもないせいか、お店の数が少ない。日本人相手の免税品店は、人がいっぱいだったが、他のお店はがらがら。目新しいものもない。ウィンドウ・ショッピングは止めて、ビールを飲む事にする。キャンプに来ていた人たちはラガーなんて、まずい。ビールじゃない。エールを飲まなきゃといっていたが、どうもすきになれない。やっぱりビールは苦みが大切なのに!!とおもっているのは私だけかなあ。
私は旅に出たら、必ず、ご当地ビールを頂く事にしている。ビールは新鮮なものが一番!マレーシアでアサヒのスーパードライ飲んでも美味しくない。もっといえば、シンガポールではタイガーよりアンカーの方が安いがまずいので、タイガーを飲む事にしている。というわけで、ご当地ビールを飲みながら、しばし今回の旅行を振り返りながら、出発を待っていた。搭乗のアナウンスがあって、ほとんどの人が機内に消えた頃、さて私も行こうとしたところが、ない!確かに受け取ったはずの搭乗券がない。かばんの底をひっくり返して、ポケットというポケットを全部チェックしてみたが、ない!またしてトラブル!
気分はまた非常事態モードに切り替わる。まずい。これは非常にまずい。というのも、、、以前、成田からKLに帰る時、すし屋でのんびりビールを飲みながら、鮨をつまんでいたら、時計を見たらなんと出発時刻の10分前。慌てて、入国審査のところに行くとなんと聞いた事のある名前がアナウンスされている。そうです。私ですよ!私はここにいますと叫びたいところだが、スタンプをもらわないと関所は越えられない。ほろ酔い気分も一気に醒め、ゲートにたどり着くともう誰もいない。「お待ちしておりました」と大歓迎を受けて、機内に入ると皆、私の方に視線が集まっている。「あなたがXXさんですか」と席につくなり、隣の方に言われたことがあった。実はこの便のチーフパーサーとパイロットの方とは以前から面識があり、あとで恐る恐る聞いたところ、乗客の数が1人足りないので、機内でも外でも何回も私の名前を呼んで探したそうです。おまけにキャプテンからはいつもだったら、そういうお客さんは、「馬鹿野郎と、怒鳴りつけてやりたいところなんですけれども」といわれてしまった。というわけで、このような失態は避けなくては!
どうしていいかわからず、オロオロするばかり。恐る恐るゲートのところにいる係員に「すみません、搭乗券をなくしたみたいなんですけれど」というと「パスポートを見せなさい。」と言われる。
別室に連れて行かれて、「あなたは何回この会社で迷惑をかけているのですか、1回XX年XX月XX日、XXで乗り遅れる(この時は確か、1時の飛行機に乗るのに、東京駅11時3分発の成田エキスプレスにタッチの差で乗り遅れてしまったあ)。チェックインはしたものの、空港で遊んでいて?5回乗り遅れそうになる。XX回法律で禁じられている離着陸時のコックピットの見学を要請する。まったく情状酌量の余地もない。罰金xxxドル、または禁固6ヶ月の刑を言い渡す。」といわれそうな雰囲気だったが、あっけなく搭乗券を渡された。きっとあれはトイレに行ったとき、手を洗うときに、置き忘れたのを誰かが届けてくれたに違いない。中に入ると、やったあ!自分の隣の席は誰もいないではないか。禁煙席はいっぱいだったが、自分の隣は開いているし、窓側は喫煙のためにとってある席でこれなら、寝られる。というわけでJFKをあとにする。
”ニューヨークから東京へ”約14時間の旅、本当に長い。操縦する人、機内でキャビンクルーとして働く人そしてお客が狭い空間で14時間も過ごすなんて考えるとすごい。お客はトイレに行く以外はほどんど席に座ったまま。こんなことを普通日常の生活でやれっていわれてもとてもする気にならない。テレビの前に座ってTVDinnerを食べながら、14時間過ごす事できるだろうか!?私の場合、長時間飛行機に乗るときは文庫本、雑誌を持てるだけ持ち込み、酒を飲んで眠くなったら寝る。また、夜飛ぶ場合(KLから東京)はとにかく寝ることだけを考えている。乗ったら、お酒だけ頂いて、着陸の少し前のシートベルト着用のサインが点灯するまで寝る事にしている。
ニューヨークからの帰りも食事のサービスのあと、しばらく読書をしてそれから横になった。いすに座りながらねるのと体を多少曲げても横になるのではえらい違いである。
昔、バハレーンに住んでいた頃、欧米系のエアラインでは、自分の子どもを座席にねかせて親は床に毛布をしいて寝ているのをよく見た。これは結構行ける。もっともシートベルトをしていないので安全ではないが、でも日系の機内では見たことがない。お行儀が悪いといえば仕方ないが、子ども連れの親にとってみれば、お行儀より、自分の疲れを取ることの方が大事だと思った。
6月22日(月曜日)
成田に夕方着くと、いつものように、JRの成田エキスプレスを利用して、東京駅に向かった。本当は成田で1泊する予定だったが、どうしても会いたい友人が、東京で待っている。その人の名前を仮にAさんとしよう。Aさんは、私にとって神様のようで、友達のようで先生のようで、仲間のようでもあり、非常に面白い存在だ。
いろいろなことに詳しくて、もっとも音楽のことだけはあまりしらないようだが、話を聞いているだけですごく楽しい。楽しいだけでなく、私の生き方をかなり変えてしまったくらい、説得力もある。
例えば、(お断りしておくが、Aさんも宗教家ではないが)「私は人との出会いをとても大切にするんです」と、さりげなく言ったことがある。本当にそうだとおもう。自分がまるで息をするように、無意識のうちにしていることを、さらりと言ってのける。それを聞いてからの私は、人との出会いというものを、とても大切にするように心がけている。
昨日の自分は、今の自分と違う。まして1ヶ月前、1年前の自分は、今ここにいる自分と違う。今この時を生きていく事ができるのは、さまざまな人のおかげである。感謝の気持ちを忘れてはいけない。この考えは、だれとでも仲良くしろという意味ではないと思う。そんな事をしていたら疲れてしまう。人間誰しも顔が違うように、考え方も違う。だけどそんな中で、自分がいいなあと思った人こそ、大切にしなくちゃ、という風に私は解釈している。
その日は何が食べたいと聞かれたので、迷わず、1週間食べられなかった、日本食、特に魚を食べる事にした。日本酒が入るにつれて、こんな話になってしまった。Aさんの友人で、超有名な一流会社を若くして脱サラして、今は、その道では非常にユニークな存在になっている方がいるらしい。ところが、その人以外の共通の友人が集まったとき、ある人が「あいつは落ちこぼれだから。」と言ったそうだ。私は思わず、”その人がやりたいことをやって、それなりの評価を得ているのに何が落ちこぼれなの!”と思わず、ボルテージが上がってしまった。
一体、人生何をさして”落ちこぼれ”というのだろうか。いい学校でて、いい会社に入って、いい地位にいる事が優秀で、そのコースからはずれることを、世間では”落ちこぼれ”というようだが、、、その方は、いわゆるコースからはそれたが、その方のやりたいことをやって、それなりの評価をえているのだから、私からみたら、”すごい”ことだとおもう。
人の生き方は、誰も評価できない。その人が生きたいと思う生き方をしていたら、それはすばらしいことだとおもう。もちろん、いろいろな葛藤とか制約とか、あるかもしれないが、自分が選んだ道で、努力をしているのをさして、”落ちこぼれ”と評するのは、エリートと世間で呼ばれる方たちのうぬぼれ、またはひがみにすぎないと、私は思っている。
久しぶりに、日本語でいい話をしたせいか、その晩はぐっすりねむれることができた。次の日はいつもの10時3分成田エキスプレス。もう旅も殆ど終わりである。この日記も、そろそろ終わりに近づいてきた。最後の成田からクアラルンプールまでのフライトも順調に行き、スバン空港は、結局私にとって、最後の利用となった。(クアラルンプール国際空港が、1週間後の6月28日からオープンした。)ちょうど日の入りと着陸が同じころとなり、きれいな夕焼けを見ながら、感慨無量であった。トラブル続きの旅であったが、自分を見直すいい機会であった。ホルンを吹くことだけでなく、音楽とは、人生とは、とかいろいろなことを考えた。同じことをいった人が、確かいたと思うが、「旅は人生である」とつくづく思った。メールはこちらへ |

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