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What is lime Who is lime Limeの音楽履歴書



Limeって何でしょう

ライムと呼びます。ライムは東南アジアの原産で、主に熱帯地帯に見られる植物です。もともと「木」とか「柑橘類」という意味がありました。オレンジと同じような白い花が咲きます。その昔、ビタミンと言う言葉が生まれる前、レモンがたくさんのビタミンCを含むと分かる前までは、ライムジュースが壊血病(ビタミンCが不足してなる病気)に効くと言われていたそうです。

マレーシアには2種類のライムがあります。
大きい方をマレーシアでは”リマウ・ニピス”と言い、レモンより少し小さいですが、熟れると緑色から黄色に変わります。酸味は少な目ですが、香りが良く、ジュースに使われます。

小さい方はマレーシアでは”リマウ・ケツゥル”と言い、フィリピンでは、カラマンシーと呼ばれていますが、麺料理やいろいろな料理に欠かせません。

どうしてニックネームがLimeなのでしょう

一年中暑いマレーシア。街を歩いたりすると、喉が渇きます。そんな時、ちょっとさっぱりライム・ジュース(といってもライムを絞って水、氷と砂糖を足したもの)を飲むと気持ちが
さっぱりします。また、マレー料理を頂くとき、ライムはなくても食べられますが、日本でいう隠し味というのでしょうかあればお料理そのものがいっそう引き立ちます。

私はそんなライムのように、なくてもいいけれど、あればいい、いつもいつもは必要ないけれど、あるとうれしい、そんな人間になりたいなあ、と思ってニックネームにしました。

どうしてLimetimesというホームページになったのでしょう

Limeの新聞という意味で”Limetimes”としました。人を動かすほどの力はありませんが、”Lime”に会ってよかった、”Limetimes”を読んでよかったという人が一人でもいれば、いいなあと思っています。人間誰しも一人では生きていけません。一人ではあまりにもさびしすぎます。かといって、会社や家族というのもしがらみがあって、なかなか息が抜けません。なくても生きていけるけど、あればうれしい、そんなページになったらいいなあと思っています。

Who is lime

本名 阿部眞美
性別
星座 山羊座
血液型 A型
干支
住んでいるところ 東京
所有楽器 ヤマハ88IID アレキサンダー103RB
マウスピース:JKW2CK
使用コンピューター Gateway5026J(2006年4月から)
東芝(ノート)、Mac, Gateway1代目、Sony,(デスクとノート)
Sharp(ノート)と買いかえました。
周辺機器 Canon PIXUS MP500,(2006年2月から)
OLYMPUS CAMEDIA C-700 携帯SH902i
HP制作に使用したソフト IBM ホームページ・ビルダー 10
(3、7と使用してきました。3代目です)
嫌いな食べ物 バナナ、ドリアン(においが苦手)
好きな食べ物 魚、特に光物の刺し身が大好き
やってみたいこと(多分無理だと思うけど) 飛行機の操縦
いつも自分が使う食器を作ること
車で東京からクアラルンプールまで行くこと


皆様からご要望?で私の音楽履歴書を書くことにします。現在日本経済新聞では、シンガポールのリー・クアン・ユーの「私の履歴書」が連載されています。それを読みながら、私も毎日というわけにはいきませんが、書いてみようかなあという気になりました。

小学校まで

私と音楽との出会いというと、まず母のことを書かなくてはならない。母は、いわゆるクラシック音楽しか聴かない、クラシック愛好家である。高校の頃、同じ学校に大変ピアノが上手な人がいて、(その方は、その後、M音楽大学でピアノ科の先生をなさったそうだ。)学校では、いつもショパンとか、リストとか弾いていたらしい。でも母自身は楽器をやる機会も余裕もなかったので、いつも聞き役に徹していたらしい。母の大学時代、そして、結婚して私が生まれるまでは、日比谷公会堂や内幸町のNHKホールで行われていた音楽会によく行ったそうだ。

私が生まれてからは、もっぱら家で、ラジオから流れるクラシック音楽を聞いていた。レコードなど買う余裕もなかったが、そのころは、ラジオで結構クラシック音楽がかかっていた。私が4歳になり、幼稚園に通い出した頃、その当時は公団のアパートの3階に住んでいたが、2階の家に、ピアノがあり、私と同じ年の娘とそのお姉さんが、毎日練習していた。同じ建物の別の階段からも、毎日かなり長い時間ピアノを練習している家があった。

当然下の家に遊びに行くうち、私もピアノなる物が欲しいと言い出したらしい。母もあわよくば、娘に、ピアノを習わせたかったが、先立つものがない。そこでしばらくの間、下のピアノを時々使わせてもらうことにして、近所のピアノの先生のところに、お稽古に行き出した。

今でも思い出す、バイエル。紙鍵盤で、無味乾燥な指の体操。はやくバイエルなんか終わって、下のお姉ちゃんが弾くような曲が弾きたいと思ったものだった。確か習い始めて半年くらいして、ピアノが我が家にやって来た。すごくうれしかった。しかし今でも覚えているのは、お稽古でやるべきバイエルはあまり練習せず、もっぱら、下のお姉ちゃんや、隣の階段から聞こえてくるような音楽を、見よう見真似でない、聞きよう聞き真似で弾いていた。しかし本当に弾ける訳はなく、母から「でたらめばっかり弾いていないで、練習しなさい。」と怒られていた。

私が通っていた幼稚園は、今で言う有名私立幼稚園で、国立や私立小学校へ行く子が何人もいたし、A音楽大学のリトミック研究を実践するための幼稚園であった。1年に何回か、大先生が大学から来たが、その1ヶ月前くらいから、リトミックの特訓が始まるのである。音楽に合わせて、皆同じように体を動かすのだが、私はいつもとろくて、先生から怒られていた。しかし幼稚園の先生にしては、ピアノが上手な先生が何人もいて、普段の歌の伴奏など結構きれいで、このことは、小学校、中学校になってから、トラブルの原因になった。(1999年1月10日)

とにかくそこそこにバイエルをやっている生徒ではあったし、小学校1,2年の頃の記憶と言えば、殆どないくらいなので、無事平穏取りたててどうこう言う生徒ではなかったようだ。ただし、音楽に関係ないが、今にして思えば、なるほどといえることを2年生の時にやっている。というのは、ある時、担任の先生が、本を読むと言い出した。ことの顛末は覚えていないが、どういうわけか、先生のお話が聞けない人は、廊下で立っていなさいと言われて、私はすぐさま廊下に立ちんぼになった。それまで表面上はいい子であった私が、始めていい子を止めた。大した理由ではなかった。でもなんとなくおもしろい話ではなかった。子供だてらにつまらない話は聞けないと思い、素直に廊下に立ったまでだったが、運よくか悪くかその時に限って、通行人が多く、廊下に立つのは、いいことではないなと、悟った次第である。

自分が入った小学校は、ずば抜けてというわけではなかったが、今で言う鼓笛隊がすごかった。朝の朝礼というと、鼓笛隊の演奏で始まり、終わったくらいなので、ただただすごいなあと思っていたが、不思議と自分がじゃあ鼓笛隊のメンバーになる、なりたいかというとそうでもなかった。カッコはよかったけど、小さいながらに大したことないなんて思っていたのである。

正直言って、小学校の音楽はつまらなかった。というかあのドミソとシレソの和音の伴奏で、歌を歌うのがあんまりおもしろくなかったと思う。幼稚園の時はもっといろんな和音が聞こえていたような気がした。どっちがいいというのはわからなかったが、幼稚園の先生のピアノのほうが、なんとなくよかったと感じていたのは事実である。

バイエルが終わって、ハノン、ツェルニーの100番、ブルグミューラーの25番、ソナチネといった、そのころお決まりのコースに人並みに入っていったが、なんとなくもの足りない。できれば、下のお姉さんとか、隣の階段の誰かさんのようにピアノを弾きたい、といつも思っていた。

そのうち、我が家は新しい団地に引っ越すことになった。私が10歳の時だ。引越しを機会にピアノの先生も変えたいと思った。そのころフランスからもどったばかりで、A音楽大学の講師をしていた先生に運よくレッスンしてもらえることになった。今から考えるとそこにお稽古にいっていた人たちは、あわよくば、音楽大学のピアノ科に入りたいという「すごい人」ばかりだった。先生も弾ければよし、弾けなければ、練習しなさいというタイプだったので、私など、本当によくレッスンしていただいたと思う。ただ、そこに行くと、今まで聞いたことない曲、お決まりでない和音などがよく聞けたので、自分自身はちっともうまくならなかったが、他の人のを聞いているのは、結構楽しかった。

その先生の発表会では、ショパンなど弾かせていただいたが、でも慣れるにつれて、やっぱり自分の居場所はここではない?!とうすうす感じていた。

小学校6年の時、何がどうしてこうなったのか、わからないが、突然母が、音楽会に行こうと言い出した。当時妹たちはまだ小さかったのに、女は家のことだけしていればよいという父なのに、どうして私と母が揃って出かけられたのかわからない。とにかく上野の文化会館まで、1時間半もかけて、日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートに行った。

プログラムは、ベートーベンのエグモント序曲、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」と交響曲第6番「田園」であった。すごかった。今までと全く違う音楽の世界に引きずり込まれたと言える。今にして考えれば、さほど大したコンサートではなかったのだが、すごかった。(1月11日)

ピアノっていうのは、つまらないとつくづく思った。どうせなら、オーケストラの指揮者になりたいと思った。でもその頃女性の指揮者っていうのは、マスコミに登場していなかったので、女で指揮者にはなれないとおもった。その前はまじめに、祖父の後を継いで、蒸気機関車の運転手になりたいと思っていたが、蒸気機関車は廃止されたし、普通の電車の運転手に女性はなれないと、わかっていたので女である限りそれらの職業には就けないのだと悟った。

それにしても日本フィルとはそれから、長いお付き合いになるとは夢にもおもわなかった。多分始めていったコンサートからすぐとは言わないが、しばらくしないうちに日本フィルが大変だということになった。

中学時代

中学は近所の中学に進んだ。ちょうど、校歌を中田喜直先生(夏の思い出とか小さい秋見つけたで有名)に委嘱したとかで、全校あげて、中田先生歓迎と校歌の披露のため、中学の音楽活動は盛り上がっていた。その頃、私は音楽部に在籍して、コントラバスを担当していた。経緯は思い出せないが、だれもやらないが楽器があるというだけで、見よう見真似、聞きよう聞き真似でやっていた。

ところが、今にして思えば、大変失礼なことをしてしまったと本当に反省しているのだが、当時の音楽の先生が、またとんでもなかった。もちろんそれ相応の教育を受けて、中学校の音楽の先生になられたのだと思うが、私にとってみたら、なんかとんでもない、どこがどうっていうわけでもないけれど、とにかくとんでもない先生で、授業なんて、めちゃくちゃだった。あんな先生やめてしまえばいいのにと、本当に思った。

せっかく校歌らしくない(どこの学校でも校歌っていうと、ドミソとシレソの和音、本当にいやだ!ひいていえば、その後大学時代に音楽教室で行った、青森西だか東高校=これは作曲家の間宮先生の御出身だとかで、およそ校歌らしくなく、黙って聞いていれば、ちょっとした合唱曲のような曲で、ひどく感動したのが未だにわすれられない)校歌をご披露し、中田先生の曲も音楽部によって、披露するというのに、、、音楽の先生の牽引力はものすごく物足りなかった。私はすごくいい経験をさせていただいたが、結局その先生は、ご披露の後突然退職なさった。

その翌年からは、全国でも有名な先生が赴任なさったが、学校の音楽は依然おもしろくなかったので、母になかばせがんで、日本フィルの演奏会につれていってもらう回数がじょじょに増えていった。

音楽会というのは、大体夜なので、行くほどに学校の勉強はおろそかになる。なのに、いっちょまえに自分はもう職業音楽家になるつもりになっていた。どうすればよいのかわからなかったが、職業音楽家が多く卒業しているB大というところに行けば、なんとかなるだろうと、勝手に思い込むようになった。しかしうわさではその大学はコネとかその筋の紹介とかないと入れないというのも、なんとなく聞こえてきた。

そのころから、私特有の音楽馬鹿が始まるのである。ラッキーだったのは、ちょうど同じクラスに、兄貴がG大に行っているという人がいたことだ。そこで、彼女に「私もお兄さんと同じ学校に行きたいんだけど、、、」と話しを持ち掛けたら、運よくそこのお母様が耳を傾けてくれた。ピアノで受けるには、「とてもだめです。」といわれたが、「指揮科なら何とかなるかもしれないわね。」と言われて唖然とした。「えーっ、女子でも指揮科に入れるんですか?!」「是非是非、私も」と言うと、本当に今にして考えるとご親切にある先生を紹介して下さることになった。

といっても白髪がよく似合う声楽が御専門の先生だったが、この先生のお宅にお伺いした際、いろいろテスト(今で言う、絶対音感のチェック、リズム、初見)を受け、「とにかく指揮者になりたいのなら、作曲をお勉強したらいいから、作曲の先生を紹介しましょう」といわれ、ピアノはそのお婆ちゃま先生。作曲理論(和声、対位法、楽曲分析等)、聴音、音楽理論一般はかのB大の教授と呼ばれる先生のお宅に、めちゃくちゃ高いお稽古代を払って2年間通うことになった。親も大変だったと思う。何しろ普通かそれ以下のサラリーマンだったから、今から、30年前で、月3万円の出費は大変だったと思う。最初のうちは、これでまじめに通っていれば、B大に入れて、B大をでたら、指揮者になって日本フィルを指揮できるんだ、、、なんて鼻高々に通っていた。しかし現実はそんな甘くなかった。(1月12日)

中学2年といえば、普通は高校受験をそろそろ考える時期だと思う。クラスの殆どが塾に行く中、私は、ピアノと作曲、そして、暇と金さえあれば、日本フィルのコンサートや練習に顔を出すようになった。はっきりいって、オーケストラの練習を見に行くのが一番の楽しみだった。ピアノは半年ほど、例の白髪の先生に通った後、「私はピアノは専門じゃないから、いい先生を紹介しましょう。」と、本当にすばらしいC先生を紹介して下さった。C先生は、現代作品のスペシャリストとして、当時すでに非常に有名な方だったが、お家にうかがうと、私より少し小さい男の子と女の子のお母さんだった。それまでピアニストというと、お掃除とか、洗濯などしないと思っていたが、家事をなさりながら、生徒にレッスンをして、1年に一度はコンサートとすばらしい方だった。教え方もとても上手というか、私と気が合っていたようで、さまざまなことを教えて下さった。C先生は、フランスで学ばれたので、フランス音楽はもちろんのこと、私にでも弾ける現代作品をたくさん教えて下さった。それまで、なんとなく弾いていたピアノも、こうすればできる。ああすれば、できる。という風にかなり具体的なテ クニックを、教えて下さった。

ピアノの練習は相変わらず少ししかしなかったが、レッスンだけはなるべく行くようにした。でもさすがに先生も、ときどき「練習してこないんだったら、レッスンしないわよ。」と時々爆弾をなげてくるので、なんとか、首にはならないようにがんばった。C先生には結局大学入学までの間、つくことができた。

日本フィルの練習は、その頃日本フィルが分裂して、とても大変な時だったが、割と自由に見学ができた。行くと、そのころは、ホルン(ついにホルンの登場です!)が最後列に一列に並んでいたので、いつもその後ろに、スコアを片手にすわっていた。その当時の日本フィルは、ホルンのメンバーが1人もいなかったので、今は大御所と呼ばれる方々が、エキストラで来ていた。今にして思うとすごいかたばかりだった。ホルンの後ろに座るということは、練習に行くといつもホルンの音ばかり、よく聞こえていた。

作曲の勉強は、というと、本当に今から考えるとすごく役に立っているが、そのころは、毎週レッスンに行くのが苦痛だった。そのD先生というのは、とても恐い先生で、ちょっとでも間違えるとものすごい大きな声で、怒るのだった。レッスンはいつもグループレッスンなので、常時15人から20人くらいの生徒が見ている。初心者だからといって手加減しない。むしろ初心者のほうが、和声とか対位法の規則をしらないので、いろいろ間違えて、どなられてばかり。

それに、入門して2,3ヶ月したところで、楽曲分析もやるようにいわれて、もう大変。分析をする曲をさらって、自分である程度分析し、みんなの前で発表しなくてはならない。夏休みとか正月となると、学校が休みなので、特訓と称して、毎日通うわなくてはならない。最初のうちは、自分でもかなり言い聞かせて、指揮者になるためには、仕方のないことなのだからとがんばっていたが、、、半年に一度与えられたテーマで作曲をしてこいという課題が出ると、もう憂鬱、締め切りに遅れると破門だ、と言われて何も書いてない5線譜とにらめっこをするのだが、あせればあせるほど、何もかけない。

そのうち、だんだん苦痛になってきた。なにしろ、H先生のピアノのレッスンや、日本フィルの練習に行くほうが、ずっと楽しいので、日が経つにつれて嫌になってきた。ある時、課題を全くやらずに行った日を最後に、その先生から破門を言い渡された。親もあんな高い月謝と交通費を払ったのに、そんなことで挫折するなんて、とさんざん叱られた。でもいやなものはどうしてもいやだ。

高校時代

高校の進学は、どうでもよかった。作曲のD先生には、B大学にいくには、学力はさほど必要でない、あまり勉強しなくてもいい、レヴェルの低い学校を選んで、専門の実技に時間をかけなくて、といわれていたので、その頃、私の学区域では、一番レヴェルの低い学校をえらんだ。中学3年の担任は、2学期末の面接の時にそのことを聞いてびっくり仰天だった。「君の学力なら、この高校に入れる。もう少しがんばればこの高校だって、、、」といわれた。なにしろ、「今時塾に行っていない生徒なんて、いない。塾にいっていれば、もっといい高校に行かれるのに」とまで、面とむかっていうような担任だったので、はじめから、どうでもよかった。そう今にして思えば、中学3年から高校1,2年の頃は、本当に「腐って」いた。

日本フィルの練習、演奏会には、相変わらず行っていた。そして、だんだん、指揮者ってつまらないなあと思うようになっていた。これは、あんまり大きな声でいえないのだが、練習中、楽員の人たちは、結構ぶつぶつ不満、不平を言っている。なるほど、見えていると半分くらいは、指揮者のほうが悪い。そりゃ、人間が80人とか集まれば、いろいろな人がいるのでしかたない。それでも黙っていうこと聞かなきゃいけないのである。指揮者になる気持ちがだんだん減っていくのとは、反対にいつもそばで耳にするホルンという楽器に、次第に興味を持ち始めるようになった。(1月15日)

和声やら、対位法といった規則からは開放されたが、指揮者になる夢は薄らぎ、高校は、行ってもおもしろくなく、やがてホルンをやってみたいという気持ちがすこしづつ湧きあがってきたが、作曲の勉強を止める時、母に「いったいいくらあんたのお稽古にはらったとおもってんの。」と、言われたのは痛かった。子供は私だけでなかったし、たいして裕福なうちではなかったので、この時期、今度はホルンをやりたいから楽器を買ってくれ、なんてとてもいえなかった。

そのころ、ちょっとしたことで、ジャズにのめり込むことになった。聞くだけではあったが、音楽はクラシックだけという母の方針の元に育った私にとっては、ものすごく新鮮だった。学校が終わると、今はどうかしらないが、中央線沿線のジャズ喫茶にたむろし、ただひたすらに聞いた。

高校も2年ともなると、進路を決めなくてはいけなかったが、もうどうしていいかわからなかった。オーケストラでホルンを吹いてみたいとは思ったが、母に切り出せなかったし、音楽は趣味にして、どこかふつうの大学に行って何か勉強しようかと思ったけど、何を勉強したいかわからない。日本フィルの練習や音楽会は相変わらず、行っていたが、だんだん職業音楽家になるのは、並大抵の努力ではできないとうすうす感じるようになると、むなしかった。

でもどうしてもホルンがやりたかった。理由は、と聞かれるとやっぱり音色だと思う。私はどうも高音域の楽器が苦手で、どちらかというと、ビオラとかチェロ、ホルンが好きだと思う。メロディばかり?(と書くと語弊があると思うが)のフルートや、華々しくカッコよく活躍するトランペットに比べると、ホルンは地味である。でもいつもいつも聞いていると、なかなかどうして、味わいのある楽器でもうホルンなくして私の人生は、、、などという気分になってくる。

学校の成績も殆ど放校または落第寸前。この先どうしたらいいのか正直いってわからなかった。ある時、意を決して、母に、「実はホルンをやりたい。できれば、ホルンで音楽大学を受けたい。ついては、楽器を買って欲しい。」とのたまった。当然の如く、返事は「NO」であったが、小さい子供のようにだだをこねて買ってくれるものでもないので、それとなく、間を置いて、何回か頼んでみた。

今は自分が親の立場にあるので、この時の親の気持ちが分かるような気がする。金があれば、買ってやってもいいが、先立つものがない。それに、前は指揮者、今はホルン、しばらく様子をみて、どうしてもホルンというなら、やむを得ないか、、、

時も時、大学はどうするべきか、やっぱり音楽にするか、それとも、文系で受かりそうなとこにするか、悩んでいた時、楽器屋さんから、ヤマハの中古の掘り出し物があると聞いた。その当時の金額で、12万円。母にもう一回買って欲しいと頼んだ。母はそれで将来はどうするのか、と聞くので、即座に、ホルンで音大を受験すると言った。しかし母も父も国、公立の大学でなくてはだめだという、条件付きで、買ってくれることになった。高校3年の春だった。

買ってもらえることがわかって、すぐ私は、日本フィルにいつもエキストラで来ていた、Eさんに、国、公立の大学をホルンで受験したいと、(全く、今考えても、むちゃくちゃなことは百も承知だったが、ホルンを習うなら、この人しかいないと思っていた)電話した。しかし、Eさんも「そんなむちゃな。」といいながらも、「どうしてもホルンを習いたいのなら、Fのところへ行けよ。」といって下さった。そこで、こんどは、F先生のところに、電話したところ、「まあ、とりあえず来てみなさい。」ということで、弟子入りさせていただいた。こうして、ホルンの音楽修行が始まった。(1月18日)

F先生は、「ホルンで音大いくなら、2浪は覚悟しないとだめだよ。それから、毎日4時間練習すること。」と最初のレッスンのときに、言われた。私はとっさに、「2浪」と言う意味がわからなかったが、大学に入ってから、現役で入れるひとというのは、本当に運がよいとしか、言えないと言うことが、よくわかった。おまけに私の学年のホルンは、後にも先にも3人とも現役で入学し、そして卒業して20年近く経つのに、3人(他の2人はなんと日本フィルに在籍している)ともまだプロとしてやっていると言う、非常に希有な学年である。

それから、1日4時間練習せよ。というのには、参った。ピアノだってよく練習しても、1時間が精一杯なのに、その4倍も練習?!それほどやらなきゃ、だめだよと言う意味はよく分かったが、どうしていいのか、わからない。F先生は、まず、オットー・ランゲイとすべての音階を練習してくるように言われた。

私のように、公団のアパートにすんでいるのでは、防音室など高価だったその時代、学校で練習させていただくしか、練習の場所がなかった。高校の音楽の先生に頼み込んで、学校の授業が始まる1時間、放課後は部活動の許されている5時まで、部屋を使わせてもらうことにした。いままで殆ど不良同然の私が、突然朝練をはじめたのである。楽器は盗まれたら困るので、毎日持って歩くことにした。今のようにソフトケースがない時代、ベルカット用の大きなスーツケースを毎日持って歩くだけでも大変だった。

レッスンは、ちっとも進まなかった。音は簡単に出たが、音域が広がっていかない。試験では、一応音階で、ハイCまで吹かされる可能性があるというのに、実際に出るのは、せいぜい五線譜にくっついている音符程度だった。だから今は、教える立場にあるが、生徒たちが、楽器を持ち始めて、1年未満なのに、バラバラ吹いているのを目の当たりにすると、それだけでうらやましいなあと思ってしまうことが、よくある一方、なかなか高い音が出ないと、こぼしている生徒には、思わず、私のほうがもっとひどかったよ。って言ってしまう。

そうこうするうちに、夏休みが近づいてきた。F先生は、一応B大の試験曲をやってくるようにと言われた。(本当に今にして考えると、F先生のこの一言がなかったら、今の自分はなかったと思う。普通、はしにもぼうにもひっかからない、受かるはずのない生徒にこんなことは、言わない。)そのころのB大といえば、すごい量の曲を暗譜(楽譜をみないで吹く)しなくては、いけなかった。1次試験でコプラッシの60の練習曲から、10曲、マキシムーアルフォンズの200の練習曲2巻から、何曲だろうか?多分10曲、2次試験でヒンデミットのホルンソナタ、それに、全部の音階とすべて暗譜というのが、きつかった。「まあ、とりあえず、1次試験は受からないと思うから、コプラッシとマキシムだけ暗譜してくるように」と言われて、夏休みはもう無我夢中でさらった。それまで、ピアノやら作曲とか、やっていたので、楽譜を読むのは、簡単だったが、なんせ音がでない。毎日こんなことなら、ホルンなんかやるなんて言うんじゃなかったと、後悔する毎日であった。

2学期に入っても全く、一次試験でやるべき曲が吹けるようにならない。やっぱり先生の言われたように、2浪は覚悟しなくてはいけないなあと、本気で考えるようになった。試験曲のほかに、F先生は、ルシアン・テーベのメソードがいいから、それもやってくるように言われた。正月は、2日に受験生が全員集まって、レッスンをするからと言われた。それまでにも、自分のレッスンの前後にそれらしき人たちが、吹いているのを聞いていたが、みんな驚くくらい上手かった。もうこれじゃ、自分は落ちても当たり前だと思った。その当日、20人くらいだったと思うが、F先生門下の受験生が勢揃いした。

試験は、3月の始めにあった。2月に入ると、それまで、1ヶ月に2,3回だったレッスンが、急に増えて、先生も今までとはうってかわって厳しくなった。2月に入り、「万が一ってこともあるから、ヒンデミットも一応やってくるように。」と言われて、練習してみたが、とても私に追えるものではなかった。

一次試験。まず、ピアノで弾いた音をホルンで吹く試験。こういうのがあるとは知らなかった。でもなんとなくうまくできてしまった。次ぎは音階。これもなんとかできてしまった。そして、後の練習曲のほうは、自分としては、まあまあの出来であった。しかし、総体的に考えると他の人たちのほうが、はるかに上手いに違いない。やっぱり来年また来るしかないなあと思った。ところが、1次試験の発表の日に、行ってみると、「あるじゃないか、自分の番号が!」見間違いかと思ったが、ある。確かにある。こりゃ大変、1次で落ちると思っていたのに、受かってしまった。と喜んだのもつかの間、2次のヒンデミットの考えたら、お先真っ暗になってしまった。(1月20日)

まず、F先生に電話をして、報告をしたら、すぐさま、次ぎのレッスンのアレンジをして下さった。それから、万が一(2次試験も通ったら、今度は、ピアノの試験があり、ハノンの39番と、バッハのインヴェンションから1曲を暗譜しなくてはいけない)ということを考えて、ピアノのC先生に電話をしたら、「あなた、どうして、そういう大事なことをもっと早くいわなかったの!!」「だって、実技の先生に絶対受からないっていわれていたもんですから。」「とにかく、明日でも家にいらっしゃい。」といわれて、それから、確か4日くらいの間は、もう朝から、晩まで2次と3次の準備におわれた。いわゆる一夜漬けである。しかし、ヒンデミットが一夜漬けで吹ける訳がない。F先生も「これで落ちてもまあ仕方ないよ。」と言われた。本当にそう思ったのだが、どうせ吹くなら、なんとかうまくやりたい。どういう風の吹き回しか、試験の前の日、日本フィルの練習を覗きに行った。多分誰かにこの悩みを聞いてもらいたかったんだと思う。ちょうど、トランペットのGさんが、「おお、久しぶり、どうした、どうした。」と声をかけて下さったので、これぞ幸いにと、「明日の試験でヒンデミット をふかなくてはいけないのだが、どうしてもうまくできないところがある。」といったら、「そりゃ、君歌えばいいんだよ。」とおっしゃった。私はしばらくの間、開いた口がふさがらなかった。なぜって、そんな簡単なことで、この曲が吹けるようになるのかと、疑ったからである。でも今にして思えば、もし、私が、Gさんの立場だったら、同じことを言うと思う。うそかと思ったが、だまされたと思い、うちで、何回か、よく歌うようにしてみた。大してできるようになったとは、思わなかったが、もうここまで来ては、くよくよしても仕方ない。自分が今できる範囲内でやろうと決めた。

2次試験の当日、私は、ものすごく自分の演奏に集中できた。こういうことっていうのは、人生長くやっているが、そうあることではない。もうここまでやったんだから、いいなあって気分になれた。家に帰り、今度はとりあえず万が一ということを考えて、ピアノを猛練習。ところが、バッハのインベンションっていうのは、なかなか暗譜が大変である。まだ暗譜が完全にできなかったのに、2次試験に合格してしまい、もう冷や汗だらだら、とりあえずピアノは最後まで弾き終えた。

後は学科と面接である。よせばいいのに、学科の前の日は、卒業式でそのあと、今はもう時効だと思うが、クラスでコンパをやって、大いに酔っ払った。おまけに、同級生が酔いつぶれてしまい、彼女の家まで送っていったので、家に着いたのが12時近く。よく朝は、案の上寝坊して、二日酔いで痛い頭を抱えながら、B大に向かった。遅刻した。それでも(そのころから、ごり押しだけはうまかったのかもしれない)なんとか学科試験を受けさせてもらったが、本当に、学科なんて、まったく準備していなかったし、こりゃ落ちるとしたら、学科かも、と思ったが、ついにB大に合格してしまった。

だから世の中、なにがあるかわからないといつも思う。絶対落ちるといわれていた私が合格し、絶対受かると思われていた人が落ちてしまったのだ。しかし、入学した後は、本当に自分は、音楽のこと、ホルンのことを何も知らないということが、よくわかった。卒業してからも今現在も、まだまだ知らないことがたくさんあるし、音楽を演奏するということは、練習すれば、するほど、難しくなる。奥が深い。一つのことを極めたと思うと、次ぎの難問が待っている、といわれたのは、チェリストのFさんだが、本当に私のような者でも、そう思う。

大学時代

特に学校に入った当初は、もうどうしていいかわからなくなった。いろんな先生や先輩がいろんなことをおっしゃる。どれをとっても間違いではないが、とにかく自分の思うようなホルンが吹けない、音楽ができない。毎日、自分はこれでいいのかと、悩んでいた。特にB大に入って先生と上手くやっていけなかった。なんか自分の考えていることと違うのである。その当時3人先生がいらしたが、どの先生も悪い先生ではなかったが、どうも違う。吹けもしないくせに生意気だったと思うが、もっと別の先生なら、自分はもっと悩まなくてすむのでは、ないかと考え出した。

そのころ、ある管楽器の雑誌の表紙に、女性のホルニストの写真が載った。とてもきれいな人で、名前は忘れたが、アムステルダムのコンセルトヘボウのホルン奏者だったと記憶している。とにかくその写真を見た時は、びっくりした。その当時、日本のオーケストラで、女性で、ホルン奏者として活躍している人はいなかった。先輩から、肺活量は足りないし、大きい音がでないから、だめだといわれていた。でも私は、密かにそんなことはない、女性だってホルン奏者になれるはずだと思っていた。そして、その証拠を見つけたのである。その女性は、アメリカでデール・クレヴェンジャーに師事したと書いてあった。私は、即座にクレヴェンジャー先生に付けば、私だってプロのホルン吹きになれると、また馬鹿見たいに思い込んでしまった。しかし、実際には、彼に習うなんて、夢のまた夢の話。人生ゲームの振り出しに戻ったような気分になった。

振り出しでさいころをごろごろ転がしているうちに、先輩がすごい話を教えてくれた。というのは、I先生が、アメリカでクレヴェンジャー氏に1年間師事して、帰ってきたばかりだというのだ。(1月21日)

さっそくI先生の電話番号を先輩に教えてもらい、電話した。「先生に是非レッスンしていただきたいのですが。」「どうしてですか。」と聞かれて、自分が考えていることをざーっと話してみた。I先生は、「では一度お会いしましょう。」といって下さった。とりあえず練習していた曲をもっていったが、最初からものすごい(コプラッシュは、できるだけたくさん、ゆっくりな曲以外はできるだけはやく弾けるようにする、できれば、60番全部弾けるようにする。それから、オーケストラスタディを練習してくるように、曲もどんどん持ってくるようにという)宿題を出された。

一瞬面食らったが、これで少しでも、アメリカのクレヴェンジャー先生のやり方に近づけるなら、やらなくちゃと思い、その日から、すごいさらうようになった。I先生のレッスンでは、練習曲や(演奏会用の)曲だけでなく、オーケストラスタディをいつも勉強させて頂いた。「クレヴェンジャー先生はこう言う風に教えて下さった。」とか「僕の経験から言うと、こういう風に吹いたらいい。」といいながら、本当にプロのオーケストラ奏者の息吹が、よく感じられるようなすばらしいレッスンであった。そのころ、ちょうど、大学2年生ごろから、本当に生意気だったと今では思うが、あちこちのオーケストラのエキストラとして、呼んで頂くようになった。特に、地方の音楽教室の仕事は、陰ではドサまわりといわれていたが、結構自分では勉強させて頂いた。今は、若くて優秀な学生さんでも、なかなかエキストラの仕事がないそうであるが、そのころは、私のような者でも、チャンスがあったので、本当に幸運だったと思う。何といっても演奏家というのは、自分の部屋でさらうだけでは、上達しない。人様に聞いて頂くことで、普段の練習の何十倍も学ぶことが、できるのである。飛行機の操縦士 になるためには、シュミレーターという便利なものがあって、そこで、かなり実地に近い形で訓練ができるが、演奏家としての訓練というのは、そういう物がない。だからいろいろなところで、吹かせて頂くのは、本当にいい勉強と経験になった。

大学3年になると、在京のオーケストラにも、エキストラとして呼んで頂けるようになり、特にI先生の在籍していたオーケストラでは、いろいろなことがあった。その頃は、バスーンにアメリカから帰国されたばかりのJ先生がいらっしゃって、とても厳しかった。ちょっと音程があっていなかったり、違う音量で吹いたりすると、口ではなにもおっしゃらなかったが、明らかにわかるような動作で、「こら!」と合図された。ある時は、ホルンセクションが大事なソロを、受け持った時、うまく行かず(明らかに私が原因であったので)、I先生のところに、「どうしてあんな下手な人をエキストラに呼んだんだ。」とある方から電話があり、先生に本当にご迷惑をかけてしまったこともあった。あの時先生は、「他の人のいうことは気にしなくて言いから、とにかく自分のできる範囲で一生懸命やりなさい。」とおっしゃり、どうやら事無きを得た。それからというもの、しばらくは落ち込んで、ホルンを吹くのもいやになってしまった。

あれはそんな出来事の前だったか、後だったかよく思い出せないが、I先生が、「おい、こんどクレヴェンジャー先生が日本にいらっしゃるぞ、その時公開レッスンをやるそうだが、でないか?」とお声をかけて下さった。一瞬信じられなかったが、憧れの先生にお会いできるだけでもすばらしいことなのに、レッスンを受けさせて頂けるなんて、まさしく夢の中のまた夢の話が、突然目の前に飛び込んできたのある。もちろん、私は例の如く、後先のことはまったく考えずに、即座にお願いします、と言ってしまった。

公開レッスンの前の日に、I先生が明日レッスンを受ける曲を見て下さったが、あまりいい出来ではなかった。またしても清水の舞台から落ちる気持ちで、レッスンに臨んだ。手足ががたがた震えて、心臓もどきどき、もう無我夢中で吹いた。クレヴェンジャー先生は、今までのイメージと違い、とても優しい方で、本当に夢の中にいるような気分だった。I先生が、私もクレヴェンジャー先生に習いたいと言っているのですが、と話しをしてくださると、先生は、いつもでも私のところに来なさいと言い残して、アメリカに帰られた。(1月25日)

大学も終わりに近づくと、これから自分はどうすればよいのか、迷う毎日であった。クレヴェンジャー先生はいつでも、来なさいとおっしゃって下さったが、持つべき物がない。そのころは、US$が270円とか300円くらいの時代であった。I先生は、とりあえず大学に籍を置いて、レッスンしていただくのが、一番いいとおっしゃたが、当時クレヴェンジャー先生の教えていらした大学の授業料は、確か、1セメスターがUS$3000ぐらいだったと思う。エキストラや、教える仕事をしても、楽譜やレコード代に消えてしまうし、楽器もヤマハから、スティーヴ・ルイスに買い換えたばっかりだったので、(そうそうI先生に習うようになってから、スティーヴ・ルイスを買わないかと、言われて、親にまた無理を頼んで買ってもらった)もう、これ以上経済的に親に何かしてもらうのは、申し訳ないと思っていた。とりあえず、あちらこちらのオーケストラのオーディションを受けてみたが、片っ端からだめだった。今にして思えば、当然と思えるくらい、へただったけれど、その頃は、どうして落ちたのか、どうしたら受かるのか、よく見えていなかった。

オーディションに落ちるたびに、アメリカに行って勉強したいという気持ちは募るばかりであった。

アメリカ留学

結局、親が私の結婚のために貯めていたお金をアメリカ行きに使わせてもらうということで、学校の卒業と同時にアメリカはシカゴに渡った。始めての一人暮らしに外国。何もかもが大変だった。何しろ言葉が通じないのが、悲劇であった。それでも泣いてなんかいられない。そのころのシカゴには、何人もの日本人留学生がいて、サックスフォーンのKさんや、クラリネットのLさんなどがいらしていたが、みんな一様にすごい、すごいといっていた。アメリカの大学生のレヴェルというのは、すごい。とにかく技術的なことをやらせたら、すごいのひとことなのである。クレヴェンジャー先生のクラスには、今は本当に有名な人たちが何人もいたけど、彼らは学生の頃から、めちゃくちゃうまかった。そういう人たちに囲まれてレッスンを受けていると、うまくなるどころか、どんどん自己嫌悪に陥ってしまって、もうホルンなんか止めたい!って思った。それでもなんとか、やめないで毎日練習を続けられたのは、憧れの先生に習うことができたことと、日本に帰ったら、絶対どこかのオーケストラに入ってやるぞ、と決めていたからであった。

先生のレッスンは、個人レッスンとグループレッスンがあった。少し言葉が分かるようになると本当に、私の求めていた理想の先生のように、私の技術的にいたらないところを、どんどんこうしたら、ああしたらと教えて下さった。なによりも、私たち学生に、先生の演奏会はなるべく来るようにと、チケットを手配してくださったり、車で途中まで乗せてもらったりしたのは、ありがたいことだった。

本当は、サックスのKさんのように、大学院を卒業したかったが、とても経済的に余裕がなかったので、1年で東京にもどった。東京にもどると、今で言う逆カルチャーショックと仕事がなかったので、ぶらぶらと自堕落な生活をしていた。そのころI先生は、自分のオーケストラでオーディションがあるから受けてみないかと、声をかけて下さったが、本当にあのころの自分は、最低だった。I先生は一生懸命レッスンしてくださったにも関わらず、オーディション当日恐くなって、にげてしまった。そして、プロのオーケストラ奏者になる夢は、一旦捨ててしまった。(1月27日)

結婚という名の永久就職を選んだが、音楽の夢?(未だに音楽の夢ってなんだか分からないが、とにかく、音楽なしでは生きていけないといって良いと思う)は、捨てられない。

バハレーン

1983年夫の仕事の都合でバハレーンという、サウジアラビアのすぐ近く、アラビア湾に浮かぶ小豆島、シンガポールほどの小さい国に行くことになる。ちょうど、そのバハレーン日本人学校で、音楽の先生があったらいいなあということで、着くなり先生になった。先生になったのはよかったが、なにしろ、小学校、中学校の音楽の先生なんてやったことがなかったので、とにかく大変だった。文部省の学習指導要領に沿って教えようとすると、もう頭痛。しゃあない、とりあえず普段は文部省のようにやらなくちゃとやっていたが、やるほどにアホらしくなる。ある時バハレーン日本人学校の学校祭があるというので、音楽的な出し物を、と言われてやっと私らしい実力を発揮する場面がやってきた。なにしろ1学年10数人なので、ほとんど一人が一つの楽器ということになる。女の子は殆どピアノとかの経験があるので、さして心配しなかったが、男の子は楽器の経験無し、または楽器の経験があっても、二度と触りたくないという挫折組。そこはなんとか、しつこく繰り替えし練習のクラスであった。

私のやり方がよかったのかわるかったのか分からないが、とりあえず学校祭は無難に終った。(その時の曲はフニクラ・フニクリ) ところが翌年は御父兄からモーツァルトを、というご意見で、向こう見ずにモーツァルトの魔笛序曲を選んでしまった。後から思うと、本当にむちゃくちゃだったと思うが、とりあえずクラスの面子でできるよう編曲して練習した。結果はともかく、十数人の音楽が好き、嫌いなメンバーでやってしまった。そうこうするうちにバハレーン日本人学校の校歌の編曲までしてしまった。いまでもバハレーン日本人学校の校歌というと私の名前が付けられている。

長男の出産を機に日本人学校で教えることは止めてしまったが、娯楽など何もない、いまでこそ信じられないかもしれないが、日本からのヴィデオも雑誌もない国ゆえ、駐在員の奥様方たちは、私をコーラスの指揮者兼指導者にしてくださった。

声楽なんて、学校で何回かレッスンを受けただけであったが、無我無中でやらせて頂いた。また日本人学校で教えるのを止めると共に、個人でピアノを教えて欲しいという方が、大勢いらしたので、二つ返事でたくさんのお子さんをお預かりした。

湾岸戦争が始まる1990年の夏まで、3人の子供を産み、育てながら、たくさんのお子さんの音楽の指導をさせて頂くという、すばらしい機会に巡り合えた。また、ヨーロッパに休暇で行くチャンスもあり、さまざまな絵画や彫刻に出会い、オーケストラの生の演奏を聞く機会を得た。

何といっても1996年だったであろうか、インターナショナル・ホルン・ソサエティのミュンヒェンでのワークショップに参加できたのは大変ラッキーであった。2番目の子がまだ乳飲み子であったが、授乳の合間を縫って、今は名高いさまざまなプレイヤーの演奏を聞いた。そのときから、ハンス・ピッカ氏とは、大変親しくさせて頂いている。

バハレーンの奥様方のコーラスの指導は2年させて頂き、その次の2年間は現地のイギリス人を中心とする、コーラスグループのメンバーにさせていただいた。そのおかげで、たくさんの歌、音楽に関する知識を教えて頂くと共に、多くの音楽愛好家と仲良くなることができた。(2月16日)

湾岸戦争の時、日本に戻ってきたが、もう音楽をするような状況ではなかった。一番下はまだ半年、そして、2歳、5歳の子供たちがいて、2度目のカルチャーショックで、落ち着いたかなあとおもった時は、今度はマレーシアに行くという話になっていた。

マレーシア

マレーシアでは、バハレーンのように、ハウスメイド(お手伝いさん)を安く雇えることができたが、駐在員の妻が、お稽古をして謝礼を受け取ったりしてはいけない、と言われ、ピアノも買ってもらえなかった。これは、夫の仕事で、家族として同伴する際は、いかなる収入を得てはいけない、という法律にしたがっている訳である。バハレーンも同じようなことだったと思うが、なにしろ、音楽を教えることができる人というのは、希少価値だったせいもあって、だれもなにもいわなかった。ところが、ここマレーシアでは、日本人も大勢いて、日本人同士の嫉妬、妬みもあって、お稽古ごとを教えられるような人は、皆本当に信じられないくらい安いお礼(たとえば、ピアノなら1回800円から1000円)で、隠れるようにしている。

ピアノがだめなら、やっぱりホルンでも練習するしかないと、子供たちが保育園、幼稚園にいっている間に少しづつ始めた。

そうこうしているうちに、クアラルンプール(以後KLと略す)に、アマチュアのオーケストラがあると言うので、のこのこ練習を覗きにいった。本当に今まで自分が聞いたどんなオーケストラより下手だった。でもそんなところでも吹かしてもらえるなら、いいやと思い入団することにした。このKLには、その当時、ホルンという楽器を持っている人が皆無という感じであった。ペナンには、何人か持っていて、ペナン出身の若いホルン奏者は、今、マレーシア・フィルハーモニー管弦楽団で活躍しているが、、、中学校などの吹奏楽でも、まだメロフォンが全盛であった。

さて、そのアマチュアオーケストラーKLSO(クアラルンプール交響楽団)での、私の最初の演奏会は、確か新世界だったと思う。何しろ、6年あまりのブランクのあと、いきなり新世界の1番ホルンを任された私は、正直言ってしんどかった。学生時代でさえ、高音域は苦手だったのに、先生もいない、相談にのってもらえそうな、プロのプレイヤーもいない。全く一人で、すべての難問を解決しなければならなかった。まったくゼロからのスタートであった。

そのころから、よく著名なプレイヤーがいわれる、「自分にとって一番いい先生は、自分自身である」という言葉を信じて、試行錯誤を重ねてきた。手始めに、CDを買いあさり、傷ついても聞きまくり、「パイパース」という管楽器の雑誌も定期講読して、何度も何度も繰り返し読んだ。

新世界が無事終ると、次ぎは、KL市のオーケストラ(ほとんど、ポップスや、ローカルの音楽を演奏する団体だが、1年に何回かクラシックも演奏する)から、エキストラの話が来るようになった。何回かお手伝いにいくうちに、指揮者から、次ぎのコンサートは、モーツァルト作曲ホルン協奏曲第4番をやるので、私がソロをするようにと言われた。そんなばかな!(実は私は4番は一度もさらったことがなかったのである)3番とかせいぜい2番くらいにしておいて下さいよ。と頼んだら、楽譜は4番しかないのでよろしくと言われた。私はここで、自分はできないというべきだったのだろうが、もしかしたら、できるかもしれない。そう、その昔G先生が、うまくなりたかったら、どんな場所でも見つけて、人に聞いてもらうことだとよく言われていたのを、とっさに思い出し、いい勉強の機会だと思って2つ返事で引き受けてしまった。

よせばいいのに、時間は2ヶ月しかなかった。学生時代にちょっとでも練習したことのある曲ならまだしも、一度もさらったこともなかったし、モーツァルトのなかでは、一番技巧的にも音楽的にも難しい。もうがむしゃらにさらうしかなかった。(1999年2月19日)

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