
自己紹介

阿部 真美(あべ まみ)
真面目が取り柄。会社では前向きだと言われてます。後ろ見たら落ち込みますから!
家ではお料理することが大好き!です。今はシリコンスチーマーにはまっています。中華料理など後片付けが楽なので、いいですよ。
飲物は国産ワインにはまっています。好きなのは足利のココワイン、高畠ワイン、朝日町ワイン、北海道ワイン、、、よいと思ったものには凝るほうかも知れません。
専門: ホルン(演奏、指導)、ピアノ(指導、伴奏)、音楽理論一般、オーケストラ、 室内楽 主な経歴: 4歳よりピアノを始める。
14歳より3年間、和声、対位法、楽曲分析、作曲技法を学ぶ。
17歳よりホルンを始める。
東京藝術大学音楽学部卒業。米国ノースウェスタン大学院にて研鑽を継ぐ。 ホルン、吹奏楽、ピアノの指導は大学在学中より行う。
1984年~1986年バハレーン日本人学校非常勤講師。 バハレーン日本人学校校歌ピアノ伴奏譜を編曲。現地のコーラスグループの指導、 ピアノ伴奏を行う。
1993年~1999年マレーシア国立交響楽団ホルン奏者。 マレーシア国内主要都市を始め、 シンガポール、インドネシアにおいても演奏、 マスタークラスを行う。ISKLインターナショナルスクール・オブ・クアラルンプールにて 伴奏ボランティアを行う。 英国王立音楽検定に毎年優秀な成績でのマレーシア人合格者を輩出。 ジャパンクラブにて数々のコンサートを主催、マレーシア人との交流も行う。 1991年帰国後は、日本国内にて演奏、指導を行う。
ピアノを平尾はるな、石澤秀子、ホルンを千葉馨、伊藤泰世、D.クレヴェンジャー、 M.ハックルマン,K.べッツの各氏に師事(敬称略)
所属: 国際ホルン協会日本地区担当 日本ホルン協会常任理事
<社>全日本ピアノ指導者協会指導者会員 練馬交響楽団
私の音楽履歴書
1999年に前のホームページに載せていたものです。
<小学校まで>
私と音楽との出会いというと、まず母のことを書かなくてはならない。母は、いわゆるクラシック音楽しか聴かない、クラシック愛好家である。高校の頃、同じ学校に大変ピアノが上手な人がいて、(その方は、その後、M音楽大学でピアノ科の先生をなさったそうだ。)学校では、いつもショパンとか、リストとか弾いていたらしい。でも母自身は楽器をやる機会も余裕もなかったので、いつも聞き役に徹していたらしい。母の大学時代、そして、結婚して私が生まれるまでは、日比谷公会堂や内幸町のNHKホールで行われていた音楽会によく行ったそうだ。
私が生まれてからは、もっぱら家で、ラジオから流れるクラシック音楽を聞いていた。レコードなど買う余裕もなかったが、そのころは、ラジオで結構クラシック音楽がかかっていた。私が4歳になり、幼稚園に通い出した頃、その当時は公団のアパートの3階に住んでいたが、2階の家に、ピアノがあり、私と同じ年の娘とそのお姉さんが、毎日練習していた。同じ建物の別の階段からも、毎日かなり長い時間ピアノを練習している家があった。
当然下の家に遊びに行くうち、私もピアノなる物が欲しいと言い出したらしい。母もあわよくば、娘に、ピアノを習わせたかったが、先立つものがない。そこでしばらくの間、下のピアノを時々使わせてもらうことにして、近所のピアノの先生のところに、お稽古に行き出した。
今でも思い出す、バイエル。紙鍵盤で、無味乾燥な指の体操。はやくバイエルなんか終わって、下のお姉ちゃんが弾くような曲が弾きたいと思ったものだった。確か習い始めて半年くらいして、ピアノが我が家にやって来た。すごくうれしかった。しかし今でも覚えているのは、お稽古でやるべきバイエルはあまり練習せず、もっぱら、下のお姉ちゃんや、隣の階段から聞こえてくるような音楽を、見よう見真似でない、聞きよう聞き真似で弾いていた。しかし本当に弾ける訳はなく、母から「でたらめばっかり弾いていないで、練習しなさい。」と怒られていた。
私が通っていた幼稚園は、今で言う有名私立幼稚園で、国立や私立小学校へ行く子が何人もいたし、A音楽大学のリトミック研究を実践するための幼稚園であった。1年に何回か、大先生が大学から来たが、その1ヶ月前くらいから、リトミックの特訓が始まるのである。音楽に合わせて、皆同じように体を動かすのだが、私はいつもとろくて、先生から怒られていた。しかし幼稚園の先生にしては、ピアノが上手な先生が何人もいて、普段の歌の伴奏など結構きれいで、このことは、小学校、中学校になってから、トラブルの原因になった。(1999年1月10日)
とにかくそこそこにバイエルをやっている生徒ではあったし、小学校1,2年の頃の記憶と言えば、殆どないくらいなので、無事平穏取りたててどうこう言う生徒ではなかったようだ。ただし、音楽に関係ないが、今にして思えば、なるほどといえることを2年生の時にやっている。というのは、ある時、担任の先生が、本を読むと言い出した。ことの顛末は覚えていないが、どういうわけか、先生のお話が聞けない人は、廊下で立っていなさいと言われて、私はすぐさま廊下に立ちんぼになった。それまで表面上はいい子であった私が、始めていい子を止めた。大した理由ではなかった。でもなんとなくおもしろい話ではなかった。子供だてらにつまらない話は聞けないと思い、素直に廊下に立ったまでだったが、運よくか悪くかその時に限って、通行人が多く、廊下に立つのは、いいことではないなと、悟った次第である。
自分が入った小学校は、ずば抜けてというわけではなかったが、今で言う鼓笛隊がすごかった。朝の朝礼というと、鼓笛隊の演奏で始まり、終わったくらいなので、ただただすごいなあと思っていたが、不思議と自分がじゃあ鼓笛隊のメンバーになる、なりたいかというとそうでもなかった。カッコはよかったけど、小さいながらに大したことないなんて思っていたのである。
正直言って、小学校の音楽はつまらなかった。というかあのドミソとシレソの和音の伴奏で、歌を歌うのがあんまりおもしろくなかったと思う。幼稚園の時はもっといろんな和音が聞こえていたような気がした。どっちがいいというのはわからなかったが、幼稚園の先生のピアノのほうが、なんとなくよかったと感じていたのは事実である。
バイエルが終わって、ハノン、ツェルニーの100番、ブルグミューラーの25番、ソナチネといった、そのころお決まりのコースに人並みに入っていったが、なんとなくもの足りない。できれば、下のお姉さんとか、隣の階段の誰かさんのようにピアノを弾きたい、といつも思っていた。
そのうち、我が家は新しい団地に引っ越すことになった。私が10歳の時だ。引越しを機会にピアノの先生も変えたいと思った。そのころフランスからもどったばかりで、A音楽大学の講師をしていた先生に運よくレッスンしてもらえることになった。今から考えるとそこにお稽古にいっていた人たちは、あわよくば、音楽大学のピアノ科に入りたいという「すごい人」ばかりだった。先生も弾ければよし、弾けなければ、練習しなさいというタイプだったので、私など、本当によくレッスンしていただいたと思う。ただ、そこに行くと、今まで聞いたことない曲、お決まりでない和音などがよく聞けたので、自分自身はちっともうまくならなかったが、他の人のを聞いているのは、結構楽しかった。
その先生の発表会では、ショパンなど弾かせていただいたが、でも慣れるにつれて、やっぱり自分の居場所はここではない?!とうすうす感じていた。
小学校6年の時、何がどうしてこうなったのか、わからないが、突然母が、音楽会に行こうと言い出した。当時妹たちはまだ小さかったのに、女は家のことだけしていればよいという父なのに、どうして私と母が揃って出かけられたのかわからない。とにかく上野の文化会館まで、1時間半もかけて、日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートに行った。
プログラムは、ベートーベンのエグモント序曲、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」と交響曲第6番「田園」であった。すごかった。今までと全く違う音楽の世界に引きずり込まれたと言える。今にして考えれば、さほど大したコンサートではなかったのだが、すごかった。(1月11日)
ピアノっていうのは、つまらないとつくづく思った。どうせなら、オーケストラの指揮者になりたいと思った。でもその頃女性の指揮者っていうのは、マスコミに登場していなかったので、女で指揮者にはなれないとおもった。その前はまじめに、祖父の後を継いで、蒸気機関車の運転手になりたいと思っていたが、蒸気機関車は廃止されたし、普通の電車の運転手に女性はなれないと、わかっていたので女である限りそれらの職業には就けないのだと悟った。
それにしても日本フィルとはそれから、長いお付き合いになるとは夢にもおもわなかった。多分始めていったコンサートからすぐとは言わないが、しばらくしないうちに日本フィルが大変だということになった。
中学時代
中学は近所の中学に進んだ。ちょうど、校歌を中田喜直先生(夏の思い出とか小さい秋見つけたで有名)に委嘱したとかで、全校あげて、中田先生歓迎と校歌の披露のため、中学の音楽活動は盛り上がっていた。その頃、私は音楽部に在籍して、コントラバスを担当していた。経緯は思い出せないが、だれもやらないが楽器があるというだけで、見よう見真似、聞きよう聞き真似でやっていた。
ところが、今にして思えば、大変失礼なことをしてしまったと本当に反省しているのだが、当時の音楽の先生が、またとんでもなかった。もちろんそれ相応の教育を受けて、中学校の音楽の先生になられたのだと思うが、私にとってみたら、なんかとんでもない、どこがどうっていうわけでもないけれど、とにかくとんでもない先生で、授業なんて、めちゃくちゃだった。あんな先生やめてしまえばいいのにと、本当に思った。
せっかく校歌らしくない(どこの学校でも校歌っていうと、ドミソとシレソの和音、本当にいやだ!ひいていえば、その後大学時代に音楽教室で行った、青森西だか東高校=これは作曲家の間宮先生の御出身だとかで、およそ校歌らしくなく、黙って聞いていれば、ちょっとした合唱曲のような曲で、ひどく感動したのが未だにわすれられない)校歌をご披露し、中田先生の曲も音楽部によって、披露するというのに、、、音楽の先生の牽引力はものすごく物足りなかった。私はすごくいい経験をさせていただいたが、結局その先生は、ご披露の後突然退職なさった。
その翌年からは、全国でも有名な先生が赴任なさったが、学校の音楽は依然おもしろくなかったので、母になかばせがんで、日本フィルの演奏会につれていってもらう回数がじょじょに増えていった。
音楽会というのは、大体夜なので、行くほどに学校の勉強はおろそかになる。なのに、いっちょまえに自分はもう職業音楽家になるつもりになっていた。どうすればよいのかわからなかったが、職業音楽家が多く卒業しているB大というところに行けば、なんとかなるだろうと、勝手に思い込むようになった。しかしうわさではその大学はコネとかその筋の紹介とかないと入れないというのも、なんとなく聞こえてきた。
そのころから、私特有の音楽馬鹿が始まるのである。ラッキーだったのは、ちょうど同じクラスに、兄貴がG大に行っているという人がいたことだ。そこで、彼女に「私もお兄さんと同じ学校に行きたいんだけど、、、」と話しを持ち掛けたら、運よくそこのお母様が耳を傾けてくれた。ピアノで受けるには、「とてもだめです。」といわれたが、「指揮科なら何とかなるかもしれないわね。」と言われて唖然とした。「えーっ、女子でも指揮科に入れるんですか?!」「是非是非、私も」と言うと、本当に今にして考えるとご親切にある先生を紹介して下さることになった。
といっても白髪がよく似合う声楽が御専門の先生だったが、この先生のお宅にお伺いした際、いろいろテスト(今で言う、絶対音感のチェック、リズム、初見)を受け、「とにかく指揮者になりたいのなら、作曲をお勉強したらいいから、作曲の先生を紹介しましょう」といわれ、ピアノはそのお婆ちゃま先生。作曲理論(和声、対位法、楽曲分析等)、聴音、音楽理論一般はかのB大の教授と呼ばれる先生のお宅に、めちゃくちゃ高いお稽古代を払って2年間通うことになった。親も大変だったと思う。何しろ普通かそれ以下のサラリーマンだったから、今から、30年前で、月3万円の出費は大変だったと思う。最初のうちは、これでまじめに通っていれば、B大に入れて、B大をでたら、指揮者になって日本フィルを指揮できるんだ、、、なんて鼻高々に通っていた。しかし現実はそんな甘くなかった。(1月12日)
中学2年といえば、普通は高校受験をそろそろ考える時期だと思う。クラスの殆どが塾に行く中、私は、ピアノと作曲、そして、暇と金さえあれば、日本フィルのコンサートや練習に顔を出すようになった。はっきりいって、オーケストラの練習を見に行くのが一番の楽しみだった。ピアノは半年ほど、例の白髪の先生に通った後、「私はピアノは専門じゃないから、いい先生を紹介しましょう。」と、本当にすばらしいC先生を紹介して下さった。C先生は、現代作品のスペシャリストとして、当時すでに非常に有名な方だったが、お家にうかがうと、私より少し小さい男の子と女の子のお母さんだった。それまでピアニストというと、お掃除とか、洗濯などしないと思っていたが、家事をなさりながら、生徒にレッスンをして、1年に一度はコンサートとすばらしい方だった。教え方もとても上手というか、私と気が合っていたようで、さまざまなことを教えて下さった。C先生は、フランスで学ばれたので、フランス音楽はもちろんのこと、私にでも弾ける現代作品をたくさん教えて下さった。それまで、なんとなく弾いていたピアノも、こうすればできる。ああすれば、できる。という風にかなり具体的なテクニックを、教えて下さった。
ピアノの練習は相変わらず少ししかしなかったが、レッスンだけはなるべく行くようにした。でもさすがに先生も、ときどき「練習してこないんだったら、レッスンしないわよ。」と時々爆弾をなげてくるので、なんとか、首にはならないようにがんばった。C先生には結局大学入学までの間、つくことができた。
日本フィルの練習は、その頃日本フィルが分裂して、とても大変な時だったが、割と自由に見学ができた。行くと、そのころは、ホルン(ついにホルンの登場です!)が最後列に一列に並んでいたので、いつもその後ろに、スコアを片手にすわっていた。その当時の日本フィルは、ホルンのメンバーが1人もいなかったので、今は大御所と呼ばれる方々が、エキストラで来ていた。今にして思うとすごいかたばかりだった。ホルンの後ろに座るということは、練習に行くといつもホルンの音ばかり、よく聞こえていた。
作曲の勉強は、というと、本当に今から考えるとすごく役に立っているが、そのころは、毎週レッスンに行くのが苦痛だった。そのD先生というのは、とても恐い先生で、ちょっとでも間違えるとものすごい大きな声で、怒るのだった。レッスンはいつもグループレッスンなので、常時15人から20人くらいの生徒が見ている。初心者だからといって手加減しない。むしろ初心者のほうが、和声とか対位法の規則をしらないので、いろいろ間違えて、どなられてばかり。
それに、入門して2,3ヶ月したところで、楽曲分析もやるようにいわれて、もう大変。分析をする曲をさらって、自分である程度分析し、みんなの前で発表しなくてはならない。夏休みとか正月となると、学校が休みなので、特訓と称して、毎日通うわなくてはならない。最初のうちは、自分でもかなり言い聞かせて、指揮者になるためには、仕方のないことなのだからとがんばっていたが、、、半年に一度与えられたテーマで作曲をしてこいという課題が出ると、もう憂鬱、締め切りに遅れると破門だ、と言われて何も書いてない5線譜とにらめっこをするのだが、あせればあせるほど、何もかけない
そのうち、だんだん苦痛になってきた。なにしろ、H先生のピアノのレッスンや、日本フィルの練習に行くほうが、ずっと楽しいので、日が経つにつれて嫌になってきた。ある時、課題を全くやらずに行った日を最後に、その先生から破門を言い渡された。親もあんな高い月謝と交通費を払ったのに、そんなことで挫折するなんて、とさんざん叱られた。でもいやなものはどうしてもいやだ。
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